序章    1章   2章   3章   4章   5章
 

   序章 人間書物


   1章  巻物の発生


   2章  紙の発見


   3章  書物と書写


   4章  冊子の発見


   5章  印刷術の発見

 

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No. 概要/語句 内容
序-1 人間書物 書物の歴史を考えるとき、二つの立場が考えられる。即ち、素材に文字を伴った巻物から始めるか、それとも書物のオーラル性や文字列の線条性等、「人間書物」の構造が巻物に一貫して引き継がれているとして、「人間書物」から始める立場である。「人間書物」という言葉を最初に使ったのは、イリンではないかと思われる。「いちばんはじめの本は、いまある本のようなものではありませんでした。それは手足をもっていました。それは本だなにならんではいませんでした。それは話をすることができました。歌をうたうことさえできました。早くいえば、それは、生きている本――すなわち『人間書物』だったのです。」(『書物その起源と発達の物語』ミハイル・イリーン著、玉城肇訳、弘文荘、1934年)また、写本が音読されていたことを最初に発表したのは、マクルーハンといわれる(『グーテンベルグの銀河系:活字人間の形成』マーシャル・マクルーハン著、高儀進訳、竹内書店、1968年)。
序-2 口承叙事詩 沖縄の古謡を集めた 「おもろさうし」は16世紀になって初めて文字化され、同様、フィンランドの伝承叙事詩「カレワラ」は19世紀になって採集された。ホメロスの長編叙事詩「イリアス」「オデッセイアー」は、前12世紀の内容を伝承して、前8世紀頃にほぼ完成させていたが、その当時、ギリシャは線文字Bをアルファベットに改め、既に文字を持っていたにもかかわらず、ホメロスの両書が文字化されたのは、遥かに後の前5~4世紀になってからであったという。ローマでも、書物とは文字書物ではなく、言語で発声されたそのものを指していたことが記録で確認できる。
序-3 西周時代の青銅器 殷を滅した周は、殷の文字そして青銅器文化をそのまま継承した。周の青銅器には、時代が進むにつれてしだいに長い文章が記録されるようになった。内容も多様化し、人名や紋章のような単純なものだけではなく、王から官職や土地を与えられた時の辞令などを、記念に作られた青銅器の中に書き記すものなどがある。現存する金文のうちでもっとも長い文章は、約500字が記録された毛公鼎(もうこうてい)のものである。 毛公鼎が作られた年代は西周後期(BC827)のころと考えて、銘文の字体は整然として、周代金文の最高傑作とも言われている。
序-4 青銅器の金文 青銅器の内壁に鋳こまれた銘文を金文という。金文は甲骨文字とほぼ同じ時代から発展した。青銅器を鋳造する時に文章も同時に鋳込み、鋳型には粘土など柔らかい素材が使われたため、ナイフで硬い骨に刻み付けた直線の甲骨文字に対して、金文の造形が柔軟で曲線が多く装飾的な文字である。
序-5 アジア諸国における中国の表意文字の受け入れ 朝鮮の吏読(7c)、日本の漢字(8c)、ベトナムのチェノム(13c)。また、西夏(10c)、契丹(10c)、女真(11c)は、西夏文字以下、「疑似漢字」と称される表意文字を作った。日本は仮名を発見したが、日本語表記の表音化に失敗した(「万葉集」など、仮名は短い韻文には用いられたが、散文には極めて稀であった。「正倉院文書」中に仮名消息がある。また、一般の日本語表記の傍らで、社会の一部で女性による仮名だけの表記が成功していた)。仮名やハングル文字を引き継ぐ民族はいない。かくして、漢字を表音文字化した文明を東洋に求めるのは無理であった。東洋文化圏のうちで表音文字を獲得できたのは、西洋から伝えられたアルファベットからで、フェニキアアラム文字からソクド文字が、ソクド文字から突厥文字(8c)、突厥文字からウイグル文字(10c)、ウイグル文字からモンゴル文字(13c)、モンゴル文字から満州文字(16c)といったように、連鎖して獲得されて行った。なお、チベットは7世紀にインドの文字を採用している。インドの文字は言うまでもなく西から持ち込まれた表音文字であり、インド文化圏の南アジアは、全て表音文字を獲得できた。
序-6 日本語を「音」で表記した事例 日本現存最古の文書である「戸籍」(702年)も、発音式表記(漢字の仮名としての利用)は地名、人名に限られているという。
序-7 漢字を日本語の表記に置き換える また、長歌は比較的、万葉仮名で表記するが、続く反歌(短歌)には万葉仮名が少なく、漢字で表記した。
序-8 女性による仮名文学の創作 「土佐日記」の「人」の用字中、その99%は「人」ではなく「ひと」で表現された(拗音など、まだ日本語の表記が発見されていなかったコトバは漢字で表記された)。平安時代の女性作家は、仮名を表現手段として自由に駆使して活躍した。日記文学はその典型で日を追った「土佐日記」を抜けて、たとえば、「菅原孝標日記」は、著者60才頃に振り返って書かれている。随筆も新しいジャンルの開拓である。その後、日本語の表記が漢字仮名交じり、和漢混交文へと推移する過程で女性による文学は消えて行き、降って江戸時代では、荒木田麗女を唯一の女性作家するまでになる。和歌文学も、最後の勅撰和歌集である「新続古今和歌集」中の女性入選歌の最高が2首(三条実冬女)であった。「新撰筑玖波集」入選者255人中、女性は3名にとどまる。
序-9 日本語(口語)で表記された事例 日本の古典を代表する「源氏物語」(11c)が口語で創作された間、漢文、漢字文で文書、記録(公家日記、「北山抄」「西宮記」)を記していた男性が著述した書物に見るべき創作はなく、漢字、漢文で辞書を編纂し(「新撰字鏡」)、民話を採集し(「日本霊異記」「今昔物語」)、歌論を説き(「新撰髄脳」)、また記録、伝記を編纂していた(「原竹取物語」「大鏡」「将門記」)。なお、金沢文庫に伝存する古文書の例では、仮名は廃れず、武士、僧侶にも使われ、譲状、消息の自筆文書に多いという。
序-10 漢文で記された日本の重要な書物の例 科学書(「解体新書」)、思想書(「自然真営道」)、哲学書(「玄語」)、医書(杉田玄白「狂医之書」)などである。


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