森書物史概論   書物史ワーキンググループ 編  ホーム | 年表 | 補注 | 用語

 

序章 人間書物

1節 人間書物とは   序章 人間書物

書物が発生した原初の時代にさかのぼれば、書物はまず、モノではなかった。書物は手に持つ素材がなく、記される文字もなく誕生した。本稿でいう「人間書物」は、書物の原初・根源的な姿を示し、今日なお書物の本質を表していると考える (序-1)

文字がまだなかった時代、多くの民族はその固有の叙事詩を口伝えに伝承してきた (序-2) 。今日なお、文字を持たない民族はその民族史を口承で伝えている。しかし、古代の文明にあっては、既に文字を獲得していたにもかかわらず、文字とは無縁に書物を誕生させていたのである。

原初、書物とは発声、朗読されたそのものを指した。もし「人間書物」が文字化されれば、それは書物の死を意味し、書物が役目を終えて「過去帳」に記録されたことを意味した。耳で聞くことが書物であるということは、書物が文字に記されるようになっても、印刷術が発達するまで基本的に変わらなかった。「人間書物」はそのとどく距離と時間に制約があったが、それは書物の本質を純粋に表わしていたことを意味していた。目を閉じていても、何も介在させずに読める書物がある。手に何も持たずに読める書物がある、それが書物の本質である。    

人間書物に示された不可逆的な連鎖、線条性は、言語の発声そのものである。書物とは何かを問えば、書物は記憶や知識の貯蔵庫ではなく、認識の要具、触媒であると考える。 

第2節   書物と文書の違い   序章 人間書物

 書物と文書は、素材と文字、時として形態まで、多くを共用している。書物を定義するには、「人間書物」から巻物、冊子へと発展した書物の構造を明らかにするほかない。書物を研究対象とする以上、両者を峻別し、混同しないことが重要である。

 古文書学によれば、文書は次のように理解されている。文書は二人の個人(あるいは団体)の間に交わされる関係の書類であり、二者間の関係とは、連絡、契約、届け、訴状、辞令などであり、また一方的な関係である命令、布告、詔書などや、相手が神仏である場合の願文等もある。 書物と文書は同じく文字を共用するが、両者における文字の利用は異なる。文書に使われる文字の意味、機能、効果は私的に閉ざされており、書物の場合のように社会に開かれていない。文書における文字の使用には年次、主題等の省略、当て字、略字、符牒、符号、更に読めない文字(暗号)も混在する。

  書物はその線条構造に従い、文字を綴る方向が一定で、「行書き」された。文書の綴りは原則として自由である。「散らし書き」や「返し書き」も、縦にも横にも、また綴る行は左右どちらからでも書くことができた。中国の書物は、文字は縦に記され、行は右から左へ進んだ。しかし文書は、たとえば、大雁塔の『聖教序記』碑の行は、右碑は右から左へ、左碑は逆の左から右へ刻まれている。  

 
書物と文書の発生の原初に戻って考えてみると、両者を紛らわせている3つの要因が考えられる。

 まず第1に、文字が発明されたのは文書を書くためであって、書物を書くためではなかったことが忘れられている。書物の誕生が文字を避けて行われていることは、東西の文明が示した歴史的事実である。また、「文字書物」時代に入ってからも、その書物は文字に固定されず、なお広く社会に開かれて生成、発展、伝承されている。
 第2に、書物の目的・機能は、記憶を助けて知識を保存する、とする誤解がある。記憶を助け、知識・情報を保存する目的・機能は文書のものである。人類の偉大な進歩の歩みは
身体外に記憶されたものではなく、五体による記憶、即ち認識を通して行われたと考える。
 
 3に、文書と書物の形態についての混同、誤解がある。書物と文書を概念として承知した上でも、なお文書が集まって自然発展的に書物が発生したとする考えが多い。両者の形態の相違を考察することから見えてくる書物と文書の違いについては、追って詳しく述べたい。

 
3   書物と文字   序章 人間書物

 「書物」とは一般に「書物」、「図書」等の用語に見られるように、文字が記された素材を想定している。しかし、文字が発見されたのは、文書を記すためであり、書物は「人間書物」として文字の発見、存在とは無縁に発生したことを忘れてはならない。
 書物の歴史を述べるにあたって、いま文字の歴史から始めるのは、書物の歴史の序章として、書物の歴史を文書から説き起こすからではない。書物における文字の問題の深さは計り知れない。書物と文書の識別には、書写方向や書体など文字に関わる問題が重要であり、また、書物の形態に関わる重要な問題も見逃せない。

(1) 文字の発生

文字書物の発生、即ち巻物の発生までに限定して、書物における文字の発生を考えたい。

言語を写し取り、その言語を再生させる方法は、世界文明発祥地における文字発見の法則にみられる通り、絵が関与し、文字は必ず絵文字で始まった。そのことに例外はなく、エジプト文明のヒエログリフや中国文明の甲骨文字で明らかである。またメソポタミア文明の楔形文字は象形の面影が薄いが、その前身は線型の象形文字であったし、書写道具を楔(葦の茎)に代えても象形文字であることに変わりはなかった。

絵の反復複写から象形文字が完成するのは必然で、以後文明の進化とともに、文字に言葉の意味を限りなく加えていったことは、中国の文字の歴史がそのことをよく示している。当然、言葉が増えていくとともに文字の数が増えていった。中国の文字は、春秋時代の甲骨文字約4600字から、紀元前1世紀に10000字(『説文解字』)、唐代で27000字、清朝の康熙字典は47000字、現代では80000字になるという。

書物における文字の重要な問題で見逃されているのが、表意文字表音文字 と書物の関わりである。世界の文字を象形・表意文字と表音文字に分けると重要なことは、表意・表音文字が文字の作り方の種類ではなく、文字の発展段階を示していることである。両文字体系は並列に並ばず、絵文字に始まり、象形文字が発達して表意文字に進み、文字革命を経て表音文字に飛躍する文字の発展過程を示している。

象形・表意文字の体系は、無限の事物を表現するために無限の単位の文字を必要とした文字の体系である。これに対し、表音文字の体系は、無限の事物を表現して有限の単位による無限に近い組み合わせで済んだ。文明史的幸運を得て西洋の文字は表音化したが、それは言語と文字の発達原理に適ったものだった。26の文字、その各々の文字は殆ど3画以内の単純な記号で万象を表現した。振り返ってみると、そもそも言語(音声)は既に意味をあらわしていたはずである。重ねて文字に意味を表そうとするのは、視覚に惑わされた錯覚でしかない。

文字の表音化革命が書物に与えたもっとも大きな影響は、表音文字は音から離れ難く、文字による言語の表記が自ずから口語で行なわれることである。そのことは、「文字書物」が「人間書物」のルーツを受け継ぎ、文字並びに書物の文字表現が母語、認識語で行なわれることを意味していた。


これらの表意・表音文字体系は、書物における書写方向と深く関係している。文字に意味を表した象形・表意文字をつづる場合、大方左右には序列がなく上下が確かであるため、縦書きになる。一方、文字に意味がない表音文字で書いた場合、文字をつづるスペリングの原理から横書きになるのである。中国の研究者は、細長い竹簡に文字を書いたので中国は漢字をタテに記したというが、素材によって構造が偶然に決まるほど書物はやわではない。書物は文書にはない書物特有の構造があり、書物が冊子ではなく巻物で始まったことと関係している。 表意文字から意味を捨象した表音文字をつづって横書きになった書物は、当初、従前の書式の伝統に従い、文字を右から左へ綴った。横書きになっても表意文字時代の伝統に規制された表音文字の右書きに対し、その左書きへの移行は、ペンを右手に持つ運筆の自然な原理であろう。


(2) 漢字の歴史

 日本の書物は「漢字仮名交じり文」で記される。その漢字仮名交じり表記の歴史を調べるために、漢字と仮名字体の本家である中国の文字、「漢字」の歴史から始める。中国文明最初の文字は、殷王朝(BC1500- 1100)の象形文字(甲骨文字)である。文字は亀の甲羅(腹甲)や牛の骨(肩甲骨)、時に鹿の骨に鋭利に刻まれ、西周初期(BC800年)まで続いた。それに文字が記されていても、亀甲、獣骨は書物の素材に当らず、それらは卜辞並びにその結果の記録が目的であった。西周時代の青銅器 (序-3) も祭器、酒器、楽器等を目的として造られたものであって、刻まれた銘文が西周後期の『毛公鼎』では500字にもなるが、その文 字量にもかかわらず、素材の意味は依然として書物とは無縁であることはいうまでもない。青銅器のほか、玉片、石鼓、石碑などが西周以降に出土しているが、全て文書、記録であって書物ではない (序-4)

紀元前221年に秦の始皇帝は中国を統一したが、それまで諸国で自由に使用していた文字(篆書)を小篆に統一した。また秦では書記のための、書く書体としての隷書、隷書の草書である草隷も行われた。その後、書く文字としての隷書は、晋王朝時代の行書を経て、印刷術が発見される直前の唐代初期に楷書に発展し、以後、中国の書物は楷書体を「視る」文字として現代まで利用してきた。書物の印刷は文字規格化の流れの終点であり、印刷時代(8世紀頃)に入ってから微調整された書体・字体が明朝体である(13世紀~17世紀)。

意味を文字の形の上に表わすことによって成り立つ表意文字は、誰か他の文明、民族によって止められない限り、進むほかない一本道であった。文明の歩みと共に増え続ける表意文字に、やむなく中国が工夫したのは、形声文字であった。表意文字体系の中に表音文字を取り込んだのである。形声文字は漢字の80パーセントを占めている。その後、中国は印刷術を発見し、表意文字を規格化、社会化させた。形声文字を取り入れたことによって中国は半永久的に文字の表音化の機会を逸したと考えられる。もし、文字並びに書物の社会化が進んでいなかったならば、19世紀のベトナムのように表音化の可能性はまだ残されていたはずである。


複数の文明、文化が互いに接近して交流があった西洋とは異なり、東洋の中国文明は孤高であった。中国周辺の諸民族は、中国文明をその表意文字ともども、一方通行で受け入れた (序-5) 。固有名詞の表記(エジプトのヒエログリフによる王名表記)や他の文化との交流(中国漢字による梵語の音写)の例など、表意文字体系にあっても、その一部の文字を表音化させることは可能である。というより、必至であるはずだが、文字体系としての表意文字から言葉の意味を捨象して表音文字体系を獲得するのは、一文明、一民族内では不可能であった。己の顔を鏡なくしてみることができないように、自らの文字を表音化するには、他の文明によって表音化された後、その表音化された文字を改めて採用するほかない。中国文明を受け入れた民族のうちで、漢字を表音化させた民族はなかった。


(3) 日本の文字と書物

 日本の「漢字仮名交じり文」はどのようにして作られたのか。中国の文字「漢字」をそのまま受け入れたが、日本語の表記に齟齬はなかったか、日本の文字は書物に何を表現できたか等を考えたい。
 民族によるの文明の受け入れは、当初バイリンガルになるのが一般的である。日本も当初、中国文明・文化を中国語と中国文で受け入れ、日本語を中国語・中国文(漢文)で表示した。金石文以下、今日に伝存する古代日本の文字資料は、全て中国文で表示された。日本最古の文字資料は、『漢委奴国王』印(1世紀)と、後年の輸入品であろうと推定されている紀元前の中国貨幣である。以後、5世紀の頃まで鏡、刀剣その他、多くの文字資料が出土しているが、皆大陸からの輸入品である。日本人が書き記した確実な文字資料は、5世紀の『稲荷山鉄剣銘』及び『隅田八幡人物画像銘』であるが、その表記は中国文である。ただし、日本語の人名、地名などの固有名詞は翻訳することはできないので、漢字の意味を伏せて漢字の音で表記した。「獲加多支鹵 ワカタケル」「意柴沙加 ヲシサカ」の例である。平安初期(9世紀)まで、日本語の表記は著述書・書物も日常の文書も、ほとんど全て中国文(漢文)で表現された。
 古代の日本は、中国文字の意味を捨象して利用することはせず、漢字をそのまま表意文字として日本語の表記に転用することになった。中国文明の勢いは圧倒的で、8世紀以前の日本の文字資料で、固有名詞以外の名詞、形容詞、動詞、助動詞、助詞の単語を「音」で写した事例はないという (序-6)

日本は中国文字を、日本語の表記文字として次のような過程を経て受け入れた。 中国を後ろ盾と仰ぐ日本の為政者並びに知識人は、「訓に因りて述べれば、詞、心におよばず、全く音を以って連ねれば、事の趣、更に長し」(『古事記』上表文)とした。日本人が工夫したのは、中国語の表意文字からの翻訳を放棄して、そのまま日本語の表記に表意文字として置き換えることであった。「ワカタケル」を「若建」「稚武」、「ヲシサカ」を「忍坂」「押坂」と表記した(『古事記』『日本書紀』の事例)。いわば表音されていた日本語を、漢字の表意そのままに表意文字化させた。例えば『万葉集』の略体歌「春揚葛山発雲立座妹念」(はるやなぎ、かつらぎやまにたつくもは、たちてもいても、いもをしぞおもう)の例である (序-7) 。多くの熟語を造り、それを「訓」ではなく「音」で短く読んだ。いわば文字表記を得るために日本語のコトバ(母語)を犠牲にしたわけである。


 ただし、情感を歌った歌謡、和歌は原則として1字1音の漢字で表現された。この楷書体で綴られた万葉仮名は、政治の表舞台を伏流して草書体の「草仮名」の訓練を経て「仮名・変体仮名」に至って、完全に漢字体から意味を捨象できた。女性の表現手段として日本語(口語)を表記して、それはすばらしい日本語表記の文字であった (序-8) 。平安中期、後期は日本文学史上、創作が主に女性によって行われた時代であったが、女性はその肉声を仮名でそのまま表記し、「ただ心一つにおのずから思ふことを書きつけ(『源氏物語』)」、また随筆という新しいジャンルを発見した。今日なお、日本語で表現された古典文学を選ぶとしたら、この時代の仮名文学から選ぶほかない (序-9) 。平安中期以降、漢字を取り込んだ日本語の表記は、極力、意味のある言葉に漢字を用い、仮名は主として用言の活用語尾、助詞にとどめた。文学書は和漢混交文で書かれたが、一方、文書は、「お触書」を始め、てにをはを除き、ほとんど漢字で埋められた(漢字文)。勢い、文字言葉(文語)になる。母語の表現力は未熟のまま放置され、創作を要する著述、また重要な書物は中国文・漢文で表現するほかなくなったのである (序-10)


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      甲骨文字
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序章 人間書物
1 人間書物とは
2 書物と文書の違い
3 書物と文字 

1章 巻物の発生
1 巻物の発生
2 巻物書物の構造・書式
3 書物になれなかった形態

2章 紙の発見
1 紙の発見
2 皮紙と紙の西伝
3 書物における料紙の進歩 

3章 書物の書写

1 書物の書写と写本の伝承 
2 異本の発生 
3 日本の写本

4章 冊子の発見

1 冊子の発見
2 西洋における冊子の発見
3 東洋における冊子の発見
4 冊子の構造と変遷
5 折本および綴葉装の位相、冊子東伝説
6 冊子の書式

5章 印刷術の発見
1 何故、中国は印刷術を発見できたのか
2 書物の印刷術
3 日本の印刷の特異性
4 書物の版式
5 中国・朝鮮とヨーロッパの印刷術の相違
6 書物の近代化 
 

 

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