No. |
概要/語句 |
内容 |
3-1 |
書物と文書の本質 |
文字は文書を記録するために発見され、書物は文字から離れて「人間書物」で発生したこと。 |
3-2 |
書写材料としての絹 |
近世でも漸く「奥の細道」「春雨日記」などの原本、原稿が伝えられている。 |
3-3 |
中国に伝承された写本 |
中国の研究者によると、中国に伝存する写本は、唐代では呉彩ランの「唐韻」の1点、宋代の写本は「仙源類譜」の1点、元代は「簡斎詩外集」のほか宋本の元抄本「水雲村ビン稿」1点である。明、清代は考勘学の発達により、研究のために宋版以下の印刷本をテキストとして書写したものが比較的多数伝存する。校勘作業のために写すので版本匡格まで写す。これに対し、日本に伝存する写本は数千万点以上で、数え切れない。
|
3-4 |
伊勢物語 |
「伊勢物語」は、顕昭の「古今集注」(1191年)に「歌次第も変り広略はべる」といわれていた。現在、同物語は流布本系の115段のほか、125段本(定家改訂本系)、157段本(伝為氏筆本系)など大略6系統に分かれている。
|
3-5 |
本文の比較 |
書物・本文の比較は既に前漢時代、目録の編纂に当って劉父子が行なっている。 |
3-6 |
土佐日記の書写 |
貫之が書いた原本は希有な例として、室町時代まで皇室に秘蔵されていた間、4人の知識人・学者によって書き写された。それぞれ同じ「土佐日記」原本を忠実に写したはずであったが、現代の研究者によって復元された本文テキストに照らした写し間違えを数え上げると、「定家仮名遣い」を著わした藤原定家が128ケ所、藤原為家が37ケ所、松本宗綱が78ケ所、三条西実隆が41ケ所になるという。古典研究の第一人者に最も多かったのは、「定家仮名遣い」による恣意的改ざんであった。転写の際の写し間違えを避ける方法として、藤原定家は改行巻頭の仮名文字の字体を変えて転写したという。
|
3-7 |
枕草子原本雑纂説 |
村岡典嗣は、原本雑纂説の理由を次のように挙げている、即ち、1、分類本の綴じ違えから雑纂本は生じ得ない。2、同じ分類本でありながら、前田本と堺本とは編纂様式が異なるのは一つの分類本から雑纂本が生じたことにはならない、逆に、雑纂本から後世に思い思いに分類編纂したと考えるのが自然である。3、雑纂本から分類本は編纂可能であるが、分類本から雑纂本を編集するのは困難である、分類本の本文には無理に分類、分割した作為が見られる。
|
3-8 |
写経事業 |
その写経書写の管理は厳しく、「布施法」に見られる罰則は、5字を書き落とすと、書写1枚分を差し引き、1行抜かすと4枚分の賃金がそれぞれ差し引かれた(1日のノルマ8?10枚)。記録に残った写字生の数は数百人といわれる。
|
3-9 |
平安時代の書物 |
「原竹取物語」の伝記、貫之の「土佐日記」の試み)ほか、説話の採集、歌論の著述、歴史物語の編纂に終始し(但し「栄華物語」は女性の仮名による歴史記録)、この時代の創作・著述は自由に仮名を駆使した紫式部等女性に限られた。
|