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森書物史概論 書物史ワーキンググループ 編 ホーム | 年表 | 補注 | 用語 |
第1節
何故、中国は印刷術を発見できたのか 第5章 印刷術の発見
印刷術の発見は書物史上、最大の革命であり、その人類史上の影響は計り知れない。市民革命、近代科学革命及び民主革命を経て、更に現代文明も印刷術の発見なくしてあり得なかった。しかし、この言語、文字に次ぐ人類第3の発見ともいうべき印刷術発見の内容が明確でない。平面に彫版して複写するという、その簡単、明瞭な技術であるにもかかわらず、また、遥か紀元前のできごとでもないにもかかわらず、何時、どのようにして発見されたかということがよく分かっていない。印刷術発見の要因に、
印章、拓印、形押し
(5-1)
、
印仏
の各説があるが、その記録、物的証拠がなく、また研究も進んでいない。このことは、改めて書物とは何かが問われていることを暗示していると考える。
メソポタミアに源を発しギリシャ・ローマ文明を引き継いだヨーロッパの自負は、当初、紙と印刷術の西伝説を認めなかった。20世紀になって漸く、カーター
(5-2)の著書(『中国の印刷術』)によってその事実が明らかにされ、印刷術は中国人の発見であることがほぼ確かめられたが、なお、西洋人は木版は印刷ではないとし、「真の印刷術」の発見はグーテンベルクの金属活字印刷
(5-3)
であるとして譲らない。書物の近代化を進めたのは活字印刷であるが、しかし、それを以って「真の印刷術」であるとするのは、真実を覆い隠すことになる。活字を拾って組版を作る作業は、版を捺すという意味で中国人が彫版した作業に変わらない。歴史的事実は、書物を印刷すること自体において、木版、活版の技術的差が重要でないことを表わしている。木版と活版の違いは文字の違いに起因する。中国による木版の発見が「印刷術の発見」に間違いないことを明確にしたい。印刷術を中国人だけが発見できた条件を下記のように列記できる。
・文字ではなく絵についての印刷から始まる。
もうひとつの鍵は、書物が持つ本質としての社会性にある。紙の存在その他、印刷術を発見するには技術的条件が欠かせないが、技術を条件の中心に据えるのは疑問である
(5-4)
。古代に貴族制度を廃止した民族は中国をおいて他にいない。古代社会に社会性を求めるとすれば、唯一宗教を措いてほかにない。中国もヨーロッパも、また印刷術を伝えられた全ての民族で、印刷は宗教活動に付随して始まっている。中国が遥かに世界に先駆けて印刷術を発見し得たのは、仏教を受け入れたことに続き、人口多くして士大夫社会の成立があったからである。宗教書から一般書の印刷に向かうためには、書物を印刷するに足る人口が必要であった。その広大な領土に多くの人口を抱えて言語は区々に別れていたが、幸いにして表意文字に「方言」はなかった。
印刷術は何時、発見されたか。現存最古の中国印刷本は868年の
『金剛経』
(5-5)
であるとされる。印刷術が発見された年代については、唐の中、末期説を中心に隋説から五代説まであり、印刷についての定義、見方によっても変わるかと思う。770年に印刷された日本の
『百万塔陀羅尼経』
は、現在、書物ではないとされている。しかし、「百万塔」の内容は、仏典であって、事実の記録でも、二者間で取り交わされた文書、書簡でもない。『百万塔陀羅尼経』を書物であると考え、また韓国仏国寺の
『陀羅尼経』
(推定751年)の出土もあり、印刷術は8世紀中葉には中国社会(民間)で発見されていたと推定する。記録その他の傍証で更に検討すると、中国社会の一部に、宗教活動のうちで文書(絵と文字)の印刷が始まったと考え、その時期を、印仏を将来した義浄の帰国(694年)に合わせて8世紀前期と推定する。印刷術発見年代の決め手も、その技術的条件に密接に寄り添う社会的背景、条件が必要である。
第2節
書物と印刷術 第5章 印刷術の発見
写本と印刷本の相違は、技術的には書物を手で書くか、機械で書くかの違いに過ぎなかったが、印刷術の発見は、書物と文字並びに書体、書物と素材、書物と形態(構造、装丁)、書物と社会、等々の関係に於いて問題を一挙に集中させて新たに問題を提起した。即ち、表意文字とその規格化が書物に印刷術を発見させ、素材を問わなかったそれまでの写本に対し、印刷術はそれを紙に限定した。また、印刷術は巻物の形態を変えさせ(中国)、書物に黙読を発生させ、宗教を介して知識人に限られていた書物の複製の技術を社会化させた。 言語と文字の関係並びに書物と文書の相違を認識し、また書物の印刷が社会とともに存在していたことを認識したい。印刷術発見の最も大きな意義は書物を万人に解放するという社会性の伸長にあった。当該社会構成員の共同参加によって獲得された言語を使って「人間書物」が誕生したが、共同参加に拠らなかった文字の発見は、それを持つ者と持たない者とに分けた。当初、文字は神のものだった。次いで為政者並びに為政者に仕える書記に、そして知識人のものになった。その「文字書物」に革命を起こしたのが印刷である。書物の印刷はその文字と形態の規格化に決定打を与えた。その事象が如実に示されたのが、中国と日本の書物の歴史であった。人類が写本時代に逡巡している限り、書物の社会化、万人への解放は限りなく困難であったと考える。写本時代、書物は同じ内容を同じ文字で記しながら、書体は写本ごとに違った。書物が転写されればされるほど、識字率が向上し、書物が増えれば増えるほど、書物並びに書物の書体はますます千差万別になった。
(5-6)
書物を読むたびごとにゴールの見えない校合作業
(5-7)
は近代の文献学が興るまで、果てしなく続いた。
第3節
日本の印刷の特異性
第5章 印刷術の発見
中国文明に隣接した日本の書物の歴史には、特異な事象が見られる。写本がなくなる印刷術発見後の中国に対し、写本の伝存量は世界最大で、他に類を見ない。日本は中国文明をほぼ全面的に受け入れたが(江戸幕府の秘庫は国書がなく、ほとんど漢籍、漢文である)、中国にはない糸綴じ冊子を工夫し
(5-9)
、印刷は冊子の両面に試みている。
日本は古代の粘葉装冊子及び綴葉装
冊子に、料紙の両面印刷や中綴じ製本を「発見」しながら、独自にその冊子を発展させることができず、後年、中国の片面印刷の平綴じ装に復帰する。日本独自の冊子装である綴葉装は19世紀まで存続ながら、ついに印刷されることがなかった。
『百万塔陀羅尼経』の印刷について、木版か銅版かの論が喧しい。しかし、素材の議論より整版か活字版かという印刷技術の問題が重要ではないだろうか。その当時の日本人が考えた、印刷術と印章との連想から、木印か銅印かは意味少なく、銅版(つまりハンコの応用)か、それとも(銅の)活字を組んだかを知りたい。なお、木版か銅版かの議論は木版に決着がついたとされる一方、疑問の意見も消えていない。
西洋が注目した日本の版画と和紙の技術は、書物の印刷が目指していた書物の規格化に逆行した特異な現象を見せた。即ち、ウィリアム・モリスに比せられる本阿弥光悦、角倉了以の
『嵯峨本(版)』
は、装飾料紙に墨の濃淡を出した連字活字で印刷された。しかしモリスが苦心を払ったのは、紙面のレイアウトと印刷字体としてのデザインにあった。モリスは書物の挿絵からその色彩を追放している。 また、日本では写本の筆記体、漢字かな交じりの連綿体を印刷し、古筆類の複製印刷出版が行なわれたが(松平楽翁『集古十種』、森川竹窓『集古浪速帖』)、書物が写本時代の諸形式を引き継ぐのは印刷時代に入った当座の話であって、江戸時代の日本の印刷史は書物の発展を示していない。一般に、印刷術を受け入れた社会の書物は、文字、装丁、形態その他、書物と印刷の全ての要素にわたって規格化が進む。しかし、日本は写本時代が長く続いて書物が規格化されず、書物に多種多様な形態と装丁が見られた。また、印刷書物も文字の規格化が遅れ、文字が活字体になるのは明治を迎えてから、変体仮名がひらがなに統一されるのは明治末年、新聞の社説、教科書が口語体になるのは大正8年(『大阪毎日』)、教科書の表題から、写刻体
が消えるのは戦後になってからである。書物の歴史からは、江戸時代を印刷時代直前の、準印刷時代として考えたい。原則として1部1冊単位で生産される写本時代は、書物の寸法は規格化されない。印刷術が社会的に認知され始めた江戸時代の日本では、書物が美濃判、半紙判の2系列に規格化された。江戸時代を量的に代表する印刷本は、絵本・草双紙である。江戸中期の赤本に始まる、おとぎ話などを書いた絵本は、大人向けの黄表紙に進んでも、依然としてその書物は絵が中心であった。その絵は冊子の見開き2ページ分を単位とし、文字は右上段から左上段へ、次に右下段から左下段の順で進み、また右上段から下段へ、次に左下段から上段へ進む。
(5-10)
古活字版の意義
(5-11)
については、木活字によって小規模出版が容易であり、日本の出版を誘導したことが挙げられる。半世紀の流行に終ったことにも現れている通り、偶然の機会(朝鮮出兵、キリスト教宣教師の漂着)に摸倣した印刷であった。印刷部数を多く要求する書物は、古活字版流行期にあっても木版を続けていたし(『和漢朗詠集』『節用集』『庭訓往来』など)、隣国の朝鮮で13世紀以来行なわれていた活字版書物に全く気づかなかった。
書物の印刷は印刷術が発見される直前の写本の書式に則る。料紙を多折して冊子の両面に書写していた西洋は、印刷も多折、1紙両面印刷した(但し、極初期は1ページ分を片面ずつ印刷)。これに対し、中国は巻物時代に印刷が始まったので、1葉を片面印刷した(当然、巻物に仕立てた)。丁数は料紙の奥に印刷された。中国文化圏にあっても、日本が書物に印刷を利用し始めたのは遅れて冊子時代に入ってからであった。日本は、冊子(写本)を印刷したので、冊子の書式に則り、その料紙の両面を印刷した。手漉き紙の寸法に従い、西洋とは異なり、1紙2ページ(1紙両面で4ページ)単位で印刷し、それを2つ折りして冊子に仕立てた(粘葉装)。片面2葉(両面4葉)の版木も稀ではなかったが、印刷の手順は1紙、1葉単位であった(1枚の版木を前にして2回刷ることになる、また版木の裏も同様。)
(5-12)
。 なお、カーターは中国の冊子について「紙はきわめて薄く透明なので片面だけに印刷した」(『中国の印刷術』
)と述べるが、唐時代までの紙は厚く、印刷冊子(胡蝶装)の料紙が薄いのは製紙技術の進歩を示し、印刷するために紙を薄く漉いたのであって、紙が薄くて片面にしか印刷できなかったのではない。北宋版、宋版は今日のトレーシング・ペーパーのように薄い(今日に伝存するものは全て和紙で裏打ちされているので薄くはない)。宋版でも折本の経典は料紙が厚いが、裏映りして裏面の印刷は不可能である。
中国の巻物の版式(片面刷り)は、冊子時代に入って2つ折り片面刷りになる。印刷される葉紙の見開き中央に「版口・欄」(日本では「版心」)
(5-13)
の欄が設けられ、そこに書名(余白が少なく、略名が多い)、巻名、丁数、刻工者名(印刷年次の手がかりになる)、喜捨者名
、魚尾
の装飾が印刷される。また1版のうちで、各行の字詰めがほぼ一定しているのに横並びが揃わず、更に「辺欄・匡郭」の寸法は1冊のうちで各版区々である(辺欄、字詰めの横並びが揃うようになるのは明版以降)。また、中国の印刷本の特徴に世界に類のない罫・界の印刷(中国の研究者は筒冊の形態を写したものとしている)。
写本には「奥書」(文書とは異なり、公的色彩の強い書物は、親本からの書写に際し、そのいきさつ等を転写本巻末に書き加える事)があるが、印刷は書物の公刊意志を明確にさせ、ごく初期を除いて「刊記」が必ず印刷された。官刻の場合は大仰な列衡が記された。刊記は明代以降、書物の「封面」(見返し)に印刷される例がある(日本で江戸時代に流行)。
第5節 中国・朝鮮とヨーロッパの印刷術の相違
第5章 印刷術の発見
19世紀になって漸く、東洋は西洋の印刷術を受け入れた。書物について、活字、料紙、装丁・製本、並びにそれらの生産方式を含めてその全てを受け入れたと言ってよい。中国が発見した木版印刷術に対し、印刷革命を成就させたのはヨーロッパであった。では、15世紀にグーテンベルクが発見した金属活字印刷術と、8世紀に発見された中国人の木版印刷術並びに14世紀以降行われた朝鮮の金属活字印刷とは、どこが違ったのであろうか。
ヨーロッパは東洋の木版を版画の類とし、印刷とは容易に認めない。単に金属活字を誇るのであれば、グーテンベルクの1世紀前の、朝鮮による銅活字をどう説明するのであろうか。両者の違いを次のように考える。 市井の一個人が借金をして、営利を目的に開かれた社会を相手として書物を印刷したのがヨーロッパの印刷術であった。これに対し、朝鮮の印刷術は、王朝政府の秘庫及び中央、地方の「官架」に書物を備えるため、また、高級官僚に下賜するための印刷であった。その少部数印刷の故にこそ、整版ではなく活字が相応しく、また古典テキスト(儒教経典)を繰り返し印刷するためにこそ、金属活字が相応しかったのである。金属活字の造り方は古代以来の方法のまま、また、度重なる銅活字の改鋳もその意義が疑われ、更に、その金属活字で古典テキストを民族の言葉に翻訳して、ハングル文字で印刷することは考えられなかった。社会性の希薄なその印刷術は宗教書の印刷が極めて少ないことに表れている。15世紀のヨーロッパが印刷を発見したとき、ヨーロッパにはその印刷を支えるバックグラウンドがあった。ヨーロッパ全土に次々に大学が創立されていき、都市には大学の管理下に、学生のためにペシア制度
(5-14)
が整備されていた。貸本屋が存在し、写本が売買されていた。パリに千人、ヨーロッパ全体に4万人の写字生がいたという。宗教改革、近代科学革命、近代市民革命の目的をもって、ヨーロッパは書物の近代印刷革命を成し遂げたのである。その先は製紙と印刷に、産業革命を視野に入れた機械化、動力化を目指すことになる。東洋の木版印刷について、中国の研究者は「木版(整版)印刷ならば版を保存しておけば需要に応じて簡単に重版ができる、(中略)活字印刷の版組には、ずいぶん手間も技術もいる。そして大量の書物を印刷するときだけ、この方法は便利なのである。」(劉国鈞『中国書物物語』)と述べているが、整版と活字版の優劣、比較は現代の印刷術の進歩を見るまでもなく明らかであろう。巻物で発生した書物の歴史には2つの革命があった。書物の書写における印刷革命と、形態における冊子革命である。冊子革命の前に印刷を発見したのが東洋であり、冊子革命を経てから印刷革命を迎えたのが西洋であった。グーテンベルグが印刷術を発見したとき、西洋は既に書物の1紙両面利用を続けて千数百年、中綴を確立していた冊子は、印刷の受け入れに滞りがなかった。木版より活字印刷がよい、手に代わって機械が活字をプレスした。西洋は当然の事として印刷の受け入れに当って、書物の形態、構造、装丁を何等変える必要を認めなかった。金属活字は書物の生産の機械化、動力化に願ってもない条件であった、油性インクが開発され、手漉紙原料の枯渇はパルプ紙を発見させた。西洋の書物史は紙と印刷に遅れを取ったが、順風満帆、この道以外に書物を万人に解放する道はなかったと思われる。誰でもが、何時でも、より速く、より安価で読むことができる、それが書物の理想ではないだろうか。一方、東洋の悲劇は冊子を発見する前に印刷を発見したことであった。紙を発見して以来、約千年、延々と東洋(中国)の書物は巻物を続けていた。自由に寸法を選べた手漉紙は、折り畳む必要を認めず、また、縦書きされた表意文字の柵から、遥として冊子発見の機を掴めなかった。中国の書物は漸く印刷術の発見を機に区欄を発見し、その区欄を綴じて冊子を発見できた。しかし、巻物時代に印刷術を発見したその書物には、まだ白紙の裏が存在していた。やがて中国は書物の印刷を確立して写本と写本の形式である巻物を追放したが、印刷による書物の社会化を進めるあまり、中綴冊子の確立並びに冊子両面印刷を進める機を失った。
第6節
書物の近代化 第5章 印刷術の発見
印刷術の発見によって書物の近代化は準備された。但し社会の一部で書物の印刷が行われただけでは、その社会が印刷時代に入ったとは言えない。書物の近代化の前提条件に、当該社会で印刷術を受け入れる準備が整えられていなければならないことを挙げたい。社会性を属性とする書物の近代化とは、多分に社会の近代化を予見することであったといえる。日本の印刷時代は江戸時代からであると、一般には理解されているが、明治からとしたい。
(5-15)
徳川300年の平穏のうちで、一見、庶民文化が盛んであったかに見えるが、社会と書物の内容、それにキリスト教、
蘭学
などの外部からの刺激や影響を検討してみると、江戸時代の社会に近代化の萌芽を見るのは難しい。当該社会が印刷時代に入ったといえるには、世界の書物史に照らして3つの条件が考えられる。
1.
その時代までに伝わったその民族(また、引き継ぐべく文明)の古典テキストが、その社会の言語で校訂、出版されること。
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