第1章 巻物の発生
第1節
巻物の発生-パピルスと簡冊 第1章 巻物の発生
書物の歴史を考えるとき、文字を伴った素材からはじめるか、書物にかかわるオーラル性や文字列の線条性などが巻物に引き継がれている「人間書物」からはじめるかの2つの立場が考えられる。
文字資料を観察すると、先ず、物体としての形がある。文字を記すために選ばれた最初の素材は、メソポタミアの粘土板(クレータブレット)、エジプトのパピルス、中国の亀甲、インドのヤシの葉など、いずれも単一の物体であった。そこで書物と文字の関わりについて、書物の形、素材、構造などとの関係を調べた。
現代につながる東西両文明の書物は巻物でこの世に発生した。(
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中国が最初に発見した書物である簡冊(簡策)は、書物の構造を典型的に表わし、書物が巻物で発生した事情と理由を分かり易く示している。
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文字をつづる場合、文書では左からでも右からでも、また上下さえ自由であったが、書物をつづる象形・表意文字の序列は、上から下への順に限られた。ヒエログリフも中国の篆書も、その象形・表意文字は、縦書きされてその行は共に右から左へ進められた。それは絵文字、象形文字で始まる文字と書物の法則であった。
簡冊に記された文字は、人間書物の構造を受け継ぎ、時間を基軸に発声される言語の不可逆的連鎖、線条
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を素材の平面に如実に示した。書物の素材に平面シートとは逆の、細い竹を選んだのは偶然ではない。竹を細く裂いてから、改めて紐でつないで板状につないだのである。1本の簡に文字を1行書いた。文書に利用した竹は、2行、3行書けるように竹を裂いたはずであるが、簡冊の簡に文字を1行しか書かないのは、それを巻くためであり、また1行は書物の製本構造の単位であったからである。全ての簡の天地を同一寸法に切り揃え、右から左へ展開する各簡に記された文字の綴りは、その巻末まで改行、空格もなく、句読点すらなかった。
東洋とは違って表音文字に進んだ西洋は文字を横書きし、巻物に文字列を一定の間隔で区切って作った区欄(コラム)を発見して、その区欄を線条につなげた。なお、巻物の製本構造の単位は素材・料紙ではなく、区欄によって切断された1行にあったと考える。
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時間を基軸として言語が不可逆的に連鎖する人間書物の構造を、滞ることなく写せる素材と装丁を発見して「文字書物」が誕生したのである。パピルスが素材として折り曲げ難かったから巻いたとする考えがあるが、書物の構造はそれ程やわではない。巻いた書物はパピルスだけではなく、皮紙も銅板も、また巻き難いと思われる鉛板さえ西洋では巻いた。書物はその全ての素材を巻いたと考える。
第2節
巻物書物の構造・書式 第1章 巻物の発生
文書と異なる書物の形態の特長は、それが必ずコンパクトに収められることにある。 写本は巻物も冊子も原則として綴じてから書かれたとみてよい。
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『正倉院文書』、『延喜式』によると、写経のシステムは、瑩生、装黄生、界生、経生、校生、題師の順が示され、料紙を巻物に継ぎ、生紙を熟紙に加工し、罫界線を引いて写経を書写、3校まで校合してのち、軸と表紙を付け、題箋が貼られたとされている。料紙が貴重であったからこそ、成巻してから書写し、書写後に校正したのである。
西洋でも、ケニオン等古代史の研究者によれば、パピルス巻物は事前に20枚で成巻されていたという。そのため「量があり過ぎるために六つの巻物に分かれた、博学の三巻」(プリニウスの言葉、ケニオン『古代の書物』より)という表現があり、また、20枚を超えるパピルスは、その21枚目の罫線が新たに引き継がれている。またパピルスの第1紙が「プロートコルロン」(糊継ぎの第1紙)と呼ばれるのも、事前にパピルスのシート(20枚)が継がれていたことを証明している。アレキサンドリア図書館の目録や中世の図書目録中に大量に見られる混合写本(ミックスロール)の存在、また中国の帛書が40尺を基準にしたという(『儀礼』鄭玄注ほか)ことは、事前に書物が製本されていたことを意味している。
巻物と冊子を分ける構造の特徴は、冊子の両面書写に対し、巻物が片面書写になることである。書物としての巻物は東洋、西洋ともにその二次的利用を除いて、料紙の表のみを利用した。書物は偶然にその形態を決めてはいない。書物は書物特有の構造を持ち、発展段階に応じた形態を示した。書物の構造と書物の書写・素材の条件は次元が異なり、その逆はあるが、書写・素材の条件によって書物の構造が規制されることは考え難い。巻物がその裏を利用しないのは、書物と巻物の構造の法則に従ったまでである。
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書物のオーラル性は、書物の印刷が始まるまで続く。この人間書物の不可逆的な線条構造は、巻物に引き継がれて、料紙の天地による物理的な切断を除き、その文字が切断されることがなく、ひたすら前へ進む一本線として、素材・料紙を継いで、裏面に反転することはなかった。素材・料紙の表に文字を書き尽くして、その裏に廻るのは文書である。パピルス、簡冊その他、巻物に裏が存在しなかったのは、歴史の事実である。
文書は、記される内容に立ち入って指図される「書き出し」の決まり以下、「書式」が存在するが、書物にはそのような「書式」は存在しない。
書物は表意、表音文字を問わず、印刷時代に入って初めて、視る書物としての黙読が確立した。「人間書物」に始まる古代の書物は、「文字書物」に移されてもその線条構造に従い、発声、朗読されるものとして、文字は書き出しから擱筆に至るまで、切れ目なくつづられた。章段、節、改行がなく、句読点すらなかった。
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表意文字で書かれた書物は文字・単語に意味が明示され、自ずからの意味によって「分かち書き」
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されていた。
しかし、表音文字で記された書物では、単語間にも空白がなく、あたかも書物に記された1行が1つの単語にさえ見えた。
表意文字から表音文字に進んでも、そのオーラル性は依然として変わらず、書物は声を出して意味を読み取って行くものとして、分かち書きにする必要がなかった。その書物の言語を母語としない古代文明間の翻訳者がそうであったように、独自の文字を持たなかった古代の日本人も句読点のない中国語・漢文を読み、書いていた。10世紀の貫之自筆の『土佐日記』を描写した記録では、和歌も改行されずに地の文に埋まっていたという。
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今に見る、章段に分けられた枕草子のテキストも江戸時代末期まで、その写本は句読点すらなくつづられた。
第3節 書物になれなかった形態 第1章 巻物の発生
文書を記録、保存するために文字が発明されて以来、文字を記すことができる様々な素材と形態で文書は大量に作られた。一方、「人間書物」を文字、素材に移した「文字書物」の不可逆的線条性は、書物に巻く形態が可能な素材を要求して発生した。そこで、書物が人間書物から巻物に進んだ過程で、文書の形態はどのように関わったか、あるいは関わらなかったかを検討したい。
(1)クレー板(粘土板)
伝存するパピルスは僅か数千点であるが、これに対し、粘土板は現在まで50万点出土し、さらに中近東付近には文字どおり無尽蔵に埋まっているという。その出土した50万点は内容としては経済文書、帳簿など文書・記録である。古代の神話、伝説、叙事詩のような内容としての書物は指折り数える程度にとどまり、圧倒的な文書の数量に比較すれば、文字書物は存在しなかったとしか考えようがない。粘土板の「書物」がほとんど存在しない理由を解釈すると、メソポタミアの地にはパピルスは生息せず、書物の素材に恵まれなかったと考えることも可能であるが、逆に人間書物の伝承には最高の風土であったと考えたい。粘土板に記された「書物」の存在はたまたま記された人間書物の「控え」と同類であったと推量する。粘土板そのものが書物か否かの結論を先に述べると、粘土板は書物に特有な構造、装丁を備えていない。冊子が発見される直前まで書物はすべての素材を巻いた。粘土板が巻物書物を先導しなかったのは明白であり、冊子をも先導しなかった。粘土板はオストラコン、石板、鉛板、白樺樹皮、鹿皮(メキシコ)、専(中国)、瓦、タパ(樹皮内皮)同様、間違いなく綴じることができない1枚の板として、文書の形態に違いない。
(2)ワックス板
単一物体ではなく、複数の板を綴じたオリエントの文書にワックス板(蝋板)がある。紀元前8世紀のギリシャに既に存在していたという。その基本形は2枚の板を紐等で結び、両内面に文字を記す形態である。手紙の往復などに利用され、何回も消して使える文書である。2枚の場合はヂプチカ、3枚はトリプチカ、4枚以上はすべてポリプチカと呼ばれている。ワックス板を折ること、即ち板を綴じることは不可能であり、冊子の2つ折り構造
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につながらない。冊子は平綴じでは発見されなかったし、たとえ10枚、50枚あるいは100枚の板を折らずに紐でつなげたとして、それを書物として利用できないことは、4枚以上のワックス板がすべてポリプチカと呼ばれる事情で明らかであろう。その素材を折らなければ冊子は発生しない。その素材をつなげて巻かなければ巻物は発見できない。そもそも文書(長文な記録など)が書物の形態を模倣すること(帳簿、ノート)はあっても、文書の形態から書物は発見できない。
(3)葉板・貝多羅葉
原初、インドの文書はヤシの葉に記されたので、その後に選ばれた素材(板、竹、金属板)もヤシの葉・貝葉をかたどられた。また、書物の形態としての巻物を発見できず、貝葉に書物を記した。一度タブレットに穴を空ければ、もはやそれを巻くことも2つ折りすることも不可能となり、書物としての巻物、冊子の発見は不可能となった。前項で文書の形態から書物は発生しないとしたが、インドでは葉板(貝多羅葉)以外の書物を知らず、葉板は少なくとも内容としての書物に違いない。その事情は書物にかかわる巻く工夫と素材を知らず、やむを得ず文書の形態に書物を記した例であったと考える。書物は内容としては石にでも書き得るのであって、葉板が文書の形態に書物を書き記した例と考える理由は葉板形態が発生以来全く変化してこなかったことでもわかる。また、インド圏の一部では樺皮を長く継いだ巻物形態も利用されているが、それは掛軸のように縦に展開させた文書の形にとどまり、書物としての巻物を導くことも冊子を発見させる契機にもならなかった。ガウア-は素材が「本の形成にしばしば決定的な影響をもたらす」(『文字の歴史』矢島文夫、他・訳)と主張するが、それは貝葉にしかあてはまらない。貝葉は何を発見できたのであろうか。書物の構造と装丁を発見できなかったとしか言わざるを得ない。確かに「素材の変化は書物の形に影響を及ぼしたはずである」(貴田庄『西洋の書物工房』)、しかし書物の構造までは侵せない。簡冊に始まり、書物はその形態を選んできた。唯一の例外が貝葉である。東西の歴史から外れ、巻物や冊子の影響を受けず、形態も素材も全く変化していない。それが貝葉である。
貝葉の形態については、書誌学的な関心が無く論議はほとんど行われていない。大方次のように了解されているようである。「いったんある形式が確立すると、のちにその機能的な意味が失われても、その形式が残るという、インド特有の伝統への固執性と関連している」(小西正捷「インド伝統的製糸業の興亡」『史苑』4巻1号所収)。
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