序章    1章   2章   3章   4章   5章
 

   序章 人間書物


   1章  巻物の発生


   2章  紙の発見


   3章  書物と書写


   4章  冊子の発見


   5章  印刷術の発見

 

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No. 概要/語句 内容
5-1 印章、拓印、形押し 印章はメソポタミアで紀元前4000年に発見されたあと、エジプト、インド、中国等でも早くから行なわれており、印章説の誤りが予見される。西洋人による印章説や円筒印章を輪転機に似せる等も発想を変えるべきである。印章や青銅器の「単字摸」が書物の印刷と無縁であるのは、ハンコの類が労力を惜しんで発送された点にある。書く手間を省くのがハンコ、円盤文字、単字摸である、全体(書物)を複製することに意義を置き、写さなければならない書物の手を省くことにならない。拓本は6世紀前期に行なわれていて(現存最古は7世紀中期)、印刷が発見されたと推定される8世紀前期とは、やや年代を空ける。中国の拓本が流行するのは中、近世であり(更に、日本での流行は江戸時代)、拓本と印刷は置換せずにすれ違う。拓本は墨を何十回となく打ち、手間と時間を要する。体験からすれば、拓本を打つよりは書写した方が早い、まして、一人で何十部も墨(タンポ)を打つ労力を考えればその差は更に大きい。拓本の意味は特定の書体の複製にあった。形木押しはエジプトを初め、諸民族で行なわれていた。日本でも、中国から印刷が伝わる前に行なわれていおり、印章同様に印刷の発見につながらない(勿論、日本は印刷術を発見していない)。ヨーロッパでも、書物革表紙への形押しは早くから(12世紀)行なわれて居り、グーテンベルクの印刷術に連絡しない。
5-2 カーター カーターは馮道が指導した「九経」の印刷について儒教経典が版木に彫られたとき、「それは大規模な木版印刷の始まりを示す事件であったが、仕事にたずさわった人々には特別に印刷するという改まった考えがなかったことは明らかである。彼らは簡単で費用のかからないために、前に見たことのある仏教徒や道教徒の方法をまねて、石の代わりに木を使って文字を彫るというむかしながらの方法をつづけていると考えた。こうして木版とその印刷が石刻とその摺拓から自然に発展した。護符と印章から発展した仏教徒や道教徒の印刷物は、文字を逆に彫る考えを生み、摺拓に代わる新しい技術をも生んだ。石刻は実にそのさきがけであった。( 『中国の印刷術』、T.F.カーター著、薮内清他訳、平凡社東洋文庫、1977年)」と述べるが、「九経」の印刷は最も社会的な行為である「書物の印刷」に、為政者が数世紀も遅れて最後に気づいた話である。
5-3 金属活字印刷 書物の印刷については、活字への郷愁がしばしば語られる。しかし、活字を拾って組版をつくる作業は、版を捺すという意味で、中国人が彫版した作業に変わらない。事前にまとめて全組版を準備するか、解版してその都度、一回一回組版を準備するかの手順の違いである。或いは、一度活字を組んだら、バラさなくてよく、再利用できる特典を除くと、活字を一字一字拾い、インテルを組んで全体を固定させる果てしない労力は、(表意文字書物にとって)彫版する労力に匹敵している。
5-4 技術からの条件 西洋の印刷並びにキリシタン版・袋綴装はプレスであって「刷り」はない。社会的事象著しい書物とその印刷を印刷技術で決めるのは疑問である。西洋のプレスも中国の木版も書物を印刷したことにおいて聊かも変わらない。日本の高野版粘葉装は両面印刷であるが故に、印刷技術はプレスであるが、それは書物の印刷に違いない。印刷とは書物を、手ではなく機械でコピーすることに他ならない。仮に「百万塔」をハンコだとしても、「百万塔」以前に「書物」をハンコに彫ったものはない。始皇帝の詔勅全文を度量衡に刻んだ例を含めて、「百万塔」以前のハンコは全て文書である。もし、文字量多い書物をハンコに彫るならば、内容が連続する数多くのハンコを造らなければならない。そのハンコは版木に他ならず、刷られたものは巻物に仕立てられるに違いない。
5-5 金剛経 トンコウ出土の拓本「金剛経」、823年。
石経を拓本に取って剪装する方法を採らず、書物の天地の寸法に合わせた字詰めで石に彫版、取拓し、かつ、各版に序数詞が付けられている。この、木に換えて石に文字を陰刻した事例は、印刷術発見後に拓本の技術を使って「印刷」試みであったと考えられるが、印刷術が拓本によって発見された証拠とする見方がある。しかし、もし拓本の技術から印刷術が発見されたとするなら、現存する多数の初期印刷物に匹敵するほどの同種の事例が伝存してよい筈ではないだうか。しかるに、証拠の拓本は唯1点しかない、しかも遅れて、突然変異のように9世紀の拓本である。また、石碑に書物の区欄(コラム)が存在する「開成石経」は833~5年であり、印刷術が8世紀に発見されたあと、その印刷術によって発見された書物の区欄が石経に写されたとするのが自然である。碑・石材に文書を刻む行為から書物特有の区欄を発見しようとするのは矛盾がある。石で書物を製本しようとしない限り、区欄を発見することは不可能である(東洋の冊子におけるコラムの発見は、一紙一版による木版印刷術の発見に拠ると考える)。
5-6 字体の規格化 王義之の「蘭亭序」には「之」の文字が20回でてくるが、全て構えが異なる。
5-7 校合 書物を読むとき、異本に気づけば、その書物のテキスト、正本を求める、学問的に注釈を付ける際、古典の刊行に当たっては必至である。「源氏物語」の例では、定家が証本を定めたのが「青表紙本」(但し、改訂は避けた)、河内本は古写本21部を比較、改訂して本文テキストを定めた。参考、1674年「枕草子春曙抄」(諸本の異同を論じる)、1782年「かげろふ日記解環」(本文を校勘)、1819年「土佐日記考証」
5-8 中国の写本 印刷術発見の最大の意義は、写本の駆逐にある。出土品を除き、中国には写本が絶滅する。故宮博物院、日本の重要文化財などに伝存する「写本」は、文書、記録、詩歌の揮毫等であって書物ではない。参考、王安石筆「致通判比部尺牘」(宋、台北故宮博物院蔵)、蘇軾筆「寒食帖詩巻、1軸」(元、台北故宮博物院蔵)、文徴明「行草書西苑詩巻、1軸」(清、北京故宮博物院蔵)など。
5-9 中国にはない糸綴じ冊子 中国の書物について胡蝶装冊子が発見された時代、既に糸綴冊子(線装を指す)が発生していたとする考えがあるが、書物が規格化される印刷時代の社会にあっては考えられない。谷折りと袋折りの優劣は明らかであり、表紙の糊掛けと糸掛けも平行して存続し得ない。巻物、写本まで含めた多様な日本の装丁に優勝劣敗は起こらない。雁皮による印刷不可能な綴葉装も絶滅しない。
5-10 江戸の絵本・草子 赤本から合巻に至る絵本は初春に発売された祝儀であった、結末は「めでたしめでたし」で終る。印刷書物であるといっても庶民の草子は「絵本」であり、写本時代の西洋の書物のように、その絵は画家が描いた(北斉「富嶽百景」1834刊、長谷川雪旦「江戸名所図絵」1834刊)。見開きの中心に絵を配し、絵の余白に文字が印刷された。書物の構造としての「行格」は無視され、文は右上段から左上段、次いで右下段から左下段へといったように続いた。表紙に印刷された絵も、上下二冊(歌川国芳「万福長者宝蔵入」、1844刊)、上中下三冊(豊国「英雄五太刀」初編、1848刊)の続き絵があった。
5-11 古活字版の意義 半世紀の古活字版の流行から戻った日本の印刷術について、「技術も進歩し、古筆なども、その筆力を、巧妙に原物のままに表現するほどになった。そのために、古筆類の複製印刷までも、出版せられた。大阪の森川竹窓の集古浪速帖や、松平楽翁の集古十種などがその一例である( 『書誌学序説』、山岸徳平著、岩波書店、1977年) 。」という意見があるが、その印刷の意味は、絵画の印刷の技術についての話であって、書物の印刷術発展の視点は、社会的公器としての書物と文字の印刷に置くべきである。日本の古活字版からの逆行は、木版から活字版(あるいは木から金属)への進歩を舵取れなかった整版、木活字の限界を半世紀で示したものと考える。なお、朝鮮に金属活字が行なわれて木活字がない、その朝鮮の影響を受けた日本に金属活字は2例しかない。風土の違いか、奈良時代、日本は朝鮮の影響を受けて金銅仏であったが、平安以降木像になる、朝鮮は木像を造らないという。
5-12 木版、版木 板の反りを防ぐ意味もあって、版木は両面を彫る。片面1葉(2ページ分)のほか、片面2葉、両面4葉(8ページ分)も稀ではない。3丁掛け(12ページ分)もある。中国では初刷りを献呈本、校正用として藍、朱で印刷することがあるという。版木は中国で梓を利用したことから、「上梓」の語がある、梨、なつめ、揚も利用される。日本では山桜を利用し、版木を「桜版」ともいう。
5-13 版心 版の中心を意味するのは、料紙を二つに折って仕立てる胡蝶装冊子の(見開き)中央に位置したからであろう。その後、袋折りになって冊子見開きの両端に移ってしまったが、呼称は変わらない。印刷術が発見された巻物時代の「版心」は料紙の左端に記された(1047年高麗版、安国寺蔵「大般若経」219帖は料紙の継ぎ目に、「刻工名」を記す「版心」が位置する、1714年に折本に改装)。表記される書名以下の情報を「口題」「柱書き」という。
5-14 ペシア制度 「手本となる写本すなわち(原本)は、筆写が終ると<原本貸出商>のもとに返却され、また新しく貸し出されることになる。このシステムによれば、写本はいつも同一の<原本>から筆写されるのであるから、別の写本からまた別の写本へと筆写される場合と違って、本文が少しずつ変化してしまうということがなかった。(中略)貸出料金は大学当局によって規定されており、<原本貸出商>に勝手に値上げすることもできず、また、希望する者には誰にでも貸し出さねばならぬという義務を負っていた(『書物の出現』リュシアン・フェーヴル、アンリ=ジャン・マルタン 著、関根素子他訳)。
5-15 書物と印刷の近代化、日本 民族語(言語と文字の一致 ― 口語体の表記確立)による印刷・出版。活字による印刷・出版。冊子の印刷・出版(両面印刷)。写本・巻物の絶滅。日本ではそれらが明治20年頃に確立される。芥川竜之介が「鼻」を発表したとき、漱石がその斬新な題材をほめたが、「宇治拾遺物語」などの日本の古典についての知識を漱石は持っていなかった、幕末生まれの漱石は日本の古典テキストを、目にすることはできなかったのである。
5-16 音読から黙読へ 活字テクノロジーは、小説読者の享受形態を変革させた見えない力であった。規格化された活字の場合、読者が印刷された行を追う視線の速度は、肉筆の痕跡をのこしている木版の書物より一段と高められ、音声は消失する。ものとしての抵抗感を失い、透明な媒体となった言葉は、容易にその背後にある幻影の世界へと読者を誘い込む。小説を音読しながら言葉のひびきやリズムをたのしむ習慣、他人が小説を朗読する声に耳をかたむける受動的な享受方式は次第に廃れて行き、黙読による孤独で内面的な享受が一般的になるのである。(前田愛「もう一つの<小説神髄>」【『日本近代文学 第25集』日本近代文学会編集、1978年】)印刷術の発見によって)どこでも手に入り、どこへでも持ち運びできるような本作りへのごく当然な要求とあい携えて登場したのが、文字を読む速度が急速に増加したという現象であろ。こうした速読は形の揃った活字なればこそ可能であったのであり、写本では不可能であった。(『グーテンベルクの銀河系 : 活字人間の形成』 マーシャル・マクルーハン著、高儀進訳、竹内書店、1968年 )
5-17 文字の規格化 印刷術の発見は文字を規格化させるが、日本では写本と写本の典型的形式である巻物が江戸末期まで存続し、書物の文字は漢文を除き、書いたように印刷された。文字が規格化されたのは近代になってからであった(明治末年になって仮名が統一された、約600字あった仮名が約80字に整理、規格化された)。なお、単語が分かち書きされることはない。


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