序章    1章   2章   3章   4章   5章
 

   序章 人間書物


   1章  巻物の発生


   2章  紙の発見


   3章  書物と書写


   4章  冊子の発見


   5章  印刷術の発見

 

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No. 概要/語句 内容
4-1 冊子発見の解明 「一巻を読み終わるごとに元どうりに巻き返すのは、実はなかなか厄介である。一巻の途中の一箇所だけを一寸見たいとなると、ことに不便である。こういった不便さは実は訳なく解決できる。巻物から実用的な本へ移るための工夫や手間は誠に一寸したものなのだが、実際にそういう形の本が使われだすのは8世紀あたりなってからのことである。物々しい巻物形式が、数百年のもの間後生大事に守られていたことは驚異とも言える(『文字の文化史』藤枝晃著、岩波書店、1971年)」。問題を解く鍵は「驚異」ではなかったことを明らかにすることにあると考える。即ち、巻物は「不便」ではなかったこと、冊子の発見は「訳なく」ではなく、極めて困難であったことを証明したい。 
4-2 パーチメント (parchment) ラテン語でベルガメーナ(pergammena)といい、ベルガモスの紙という意味。羊皮紙を指す。内皮の肉面は白く平滑で、毛根のある銀面は粗く、やや黄色。石灰に浸けて毛、肉片を取り除くので、アルカリ性を示す。
4-3 パーチメントの折帖 その標準は、羊皮紙4シートを同時に重ねて中央で二つ折りし1帖とする、8面16ページになる。料紙の重ね方は表と表、裏と裏で合わせる。書写は二つ折りの折り目を左にして、空押し、または薄いインクの罫を引き第1ページから書き始める。ラテン語でquaternio(カテルニオ)、英語でquive(1帖)。
4-4 グレゴリーの法則 1885年にドイツのグレゴリーが発見した。羊皮紙を折り畳んで折帖をつくるので、その見開きが必ず同一面(銀面と銀面、肉面と肉面)になること、切断した料紙で折帖を作る場合にも法則に合わせる。当然、1葉単位の手漉き紙で折帖を作る日本の綴葉装には当てはまらない。
4-5 チェスター・ビューティ写本 Dublin Chestr Beatty Library所蔵。3世紀初の「聖書」残欠本。パピルスの二つ折り1帖本冊子、推定440ページ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4複音書となる。聖書が一冊に収めるようになるのは冊子が多帖化してからで、それまでは4複音書、パウロ書簡集、使徒書の3分冊であった 。
4-6 巻物が折本に進み 「巻物を広げるような煩わしさなしに、あるテクストの任意の箇所を参照したいという願望、細長い貝多羅の葉を紐で綴じたインドの教典を模倣したいという敬虔な願い、別々な仕様で書物を作る必要、それらが相まってやがて書物自体の外見は変化したのである。敦煌の写本の中には、丈夫な紙に書写された穴に紐が通されているテクストも残っている。またこうした仕様には縁に糊づけされ、折り畳み式になった短冊状のものもあった。‥アラビアの著作家イスハークも989年に「中国人は屏風の葉に開く紙を用いて、宗教書や学術書を著している」と記すことになる(『書物の出現』リュシアン・フェーヴル、アンリ=ジャン・マルタン 著、関根素子他訳)。
4-7 三十帖冊子について 冊子の表紙を、紐でくくるように作られており、巻子より冊子へと形式が変遷したことを示している。折帖は、宋版経の影響を受けて、読誦に便利なところからこれを模倣したもので、ずっと後世になってからのものである(前田多美子『古筆の表装史』)。
4-8 中国の印刷術 中国の印刷術を分析したカーターは、しかし、書物の印刷と形態の・装丁の関連に関心を持たず、「紙は薄く透明なので、片面に印刷した・・白紙の部分を内側にして折り返される」としている。
4-9 書物装幀の改装 改装の事由は、胡蝶装の落丁と胡蝶装の落丁と糊綴による虫損を避けながらも、書物の印刷と胡蝶装の版式を護った結果であると考える。胡蝶装を改装した包背装は平綴に交代して落丁を防いだが、、直表紙は巻頭、巻末に糊付けされた。北宋版「姓解」は、現在線装であるが、もと包背装であり、さらに溯っては胡蝶装(原装)であった。原前小口、原綴代部分に虫損が目立ち、旧装幀時代の痕跡が認められる。
4-10 東洋冊子装丁の命名 装丁の命名について、製本の基本的相違点を大きくつかんで分類命名したい。中綴(胡蝶装、綴葉装)と平綴(その他全て)に分け、平綴は料紙の谷折り(粘葉装)か山折り(その他全て/袋綴)で分ける。袋綴は表紙の掛け方で包背装、線装(日本では袋綴)と結綴に(大和綴)に分ける。朝鮮綴、康煕綴、麻葉綴などは、製本・装丁の種類にはならない。
4-11 胡蝶装と粘葉装 料紙の折り目で背に糊付けされる胡蝶装の版心の幅は狭いが、日本の粘葉装は平綴で版心部が幅広く、およそ左右20ミリの糊代で本文料紙が折り曲げられている。糊による中綴の欠点は、巻頭巻末の料紙を除き落丁しやすく、今日に伝えられた胡蝶装・宋元版の前全丁が原装であることは稀といわれている。(敦煌文庫、金沢文庫等に宋版の落丁した断片が伝えられている)
4-12 敦煌写本の折本 「後世にこれほど普通であった折本がなぜ敦煌写本の中に多く見られないのか、納得のいかないことである。もっと不思議なことはその数少ない折本形の写本のほとんどは通常の折本ではなく、毎ページの真中もしくは真中の少し上よりに孔のあいたものであることである。‥敦煌の折本の遺品は、これが巻物からではなく、貝葉から変化したものであることを示している」(『文字の文化史』藤枝晃著、岩波書店、1971年)
4-13 折本装丁の時期 平安中期以前の折本が発見されていないことを考え合わせ、この「便利」な装丁が平安中期に中国から伝えられたということではないか。中国の「一切経」(6千巻)の印刷も11世紀以降から折本になっている
4-14 綴葉装の位相 日本は胡蝶装から、冊子の装丁(二つ折、中綴の原理)を学び、雁皮紙を見て、糊を使わずに糸で綴じた(中国の料紙は糊しか効かなかった)。日本が胡蝶装から独自に学んだ冊子装丁は、印刷も片面書写もしない粘葉装であった。平安末期に冊子をいんさつするようになっても、それは両面印刷であった。日本では、胡蝶装と粘葉装がまた区同じものとされているが、糊代によってできる粘葉装の本文料紙の折り目が胡蝶装にはない。
4-15 匡郭の乱れ 明版以降を除き(袋綴書物の前小口に集中して見える)匡格は全て寸法が異なる。慣習では、一冊の全料紙を天罫で合わせるので、書物の前小口にのぞく地罫は乱雑になる。■画像
4-16 レイアウト 一回ごとに決められる写本冊子では、その機能は見えてこなかったが、書物を印刷するようになってその重要な役割が顕れた。文と図の割り付け、表示・配列。また字間、行間、区欄の有無や数など。なお、巻物のレイアウトは、天地の罫のほかは、章段、改行などがなく簡単である。西洋では区欄の配置の問題があるが、文字を縦書きする東洋にはそれもない。
4-17 冊子の寸法 斐紙の重量からして、寸法は楮より小さいはずである(全紙)。その小さい全紙から、冊子の料紙を三枚採って二つ折りした冊子の寸法が枡形(六つ半本)になった。書物に集約姓を求めて冊子が発見された結果、料紙の両面が利用され、「源氏物語」等、物語は著述原稿から冊子・草子(54帖)に記され巻物には記されなかったと推定される。勅撰集を除き、両面書写、綴葉装の草子、私家集は斐紙(枡形)が多い。楮紙は半切りを繰り返して、その料紙は全て縦長になる(横本仕立てを除く)。
4-18 料紙の規格化 「B4サイズは日本特有の規格だが、徳川将軍家と御三家が使った「美濃紙」の流れを引き継いでいると言われている。江戸時代の大名諸侯が使っていた書類のサイズは‥、それぞれ藩ごとに異なっており、かつては藩によって独自のサイズを持っていた。それらの中でもっとも大きくて立派だったのが美濃紙だが、これは徳川家だけに使用が許され、庶民が使うと罰せられたというから面白い。庶民は今のA4判サイズに相当する半紙しか使えなかったのである」(『本と装幀』 田中薫著、沖積舎、 2000年)。
4-19 冊子の表紙 印刷時代に入った中国の冊子は、書物の印刷を発展させて料紙は弱く、当初の中綴であった胡蝶装を除き、表紙も薄手になった。朝鮮、日本の印刷冊子の表紙が厚いのは、その料紙(楮)による。特に金属活字で印刷した朝鮮の書物は大型で表紙もさらに厚い(中には鉄板で綴られさえした)。なお、板表紙の西洋の冊子は、印刷時代に入った当初、書物は本体(中身)で売買され、表紙並びに製本装丁は各購入者が行ったという。「フランスでは少し前まで、文学書を中心として、多くの本が仮綴じで売られていた。また、限定番号のついた高価な本の場合は、未綴じで売られることも珍しくなかった‥仮綴本とは折帖が糸でごく簡単にかがられ、その折帖の背に薄手の表紙がニカワで軽くとめられた、原則としてアンカットの状態の本を言う。未綴本の場合は、アンカットの折帖の束を薄手の表紙で包んだだけである(『西洋の書物工房:ロゼッタ・ストーンからモロッコ革の本まで』、貴田庄著、芳賀書店、2000年)」。


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