森書物史概論   書物史ワーキンググループ 編  ホーム | 年表 | 補注 | 用語

 

4章 冊子の発見

1節 冊子の発見—はじめに  4章 冊子の発                      

 
東西の両文明とも、書物は「人間書物」から「文字書物」に写されて巻物が発生し、西洋のパピルス巻物、東洋の簡冊に始まるその優れた発明は、千年以上に渉って続いた。そして、西洋は紀元1世紀頃、東洋(中国)は8世紀頃、共に巻物は冊子に代わる。この装丁の一大変革の事由は、発見年代も含めて必ずしも明確ではない。東西両文明ともに、その変革の内容は歴史の記録に残されず、また現在なお確かな証拠品がない。冊子発見の解明は、印刷術発見の問題と並ぶ書物史の最も大きな研究テーマである。

冊子と印刷術の発見は、その社会的、技術的条件から、東西両文明で順序が大きく違えた。即ち、ヨーロッパが凡そ紀元1世紀に冊子を発明し、その後、漸く15世紀に木版、活字印刷を発見したのに対し、中国は8世紀まで冊子を発見することができなかったが、木版印刷を発明すると同時に冊子を発見した。 (4-1) 冊子発見論には、以下に述べていく次の問題点を承知しておきたい。


(1) 東西両文明の間にあってその影響を受けた中央アジアの諸民族は、巻物、折本、貝多羅ほか書物と文書・記録を様々な素材と形態に記し、また文字を縦にも横にも書いている。


(2) 冊子の発生について、しばしば料紙を重ねてその一端を綴じたという表現が行なわれているが、冊子は2つ折りした料紙の折り目を糸もしくは糊で綴じる「中綴じ」で発見されたのであって、料紙を平綴じで発見されたことはない。


(3) 西洋ではパピルス巻物とパーチメント冊子の間に何も介在させないのに対し、東洋では両装丁の間に折本を置き、その存在を冊子の発見に不可避とするが、冊子発生の契機並びにインパクトは、西洋ではパピルスから獣皮紙への書物の素材の交替、東洋では中国での書写革命(印刷の)にあったと推定する。



2節 西洋における冊子の発見—パピルスからパーチメントへ  
4章 冊子の発見

パピルス〈巻物〉からパーチメント〈冊子〉への発展について、ケニオンは「パピルスの凋落の年代は4世紀からと断定できる。


  やや突然のこの変化の原因は全く明らかとは言えないが、2つの原因が同時に作用したらしい。1つはパピルス巻子よりもっと大きい量を含む本に対する要求、1つは皮紙製造の改良である」(ケニオン『古代の書物』)と述べるにとどまっている。また「大きな皮紙の皮は縦横の両方に折り畳むことが出来たし、また常にそうされていた」(同書)と鋭く観察しながら、一方で「すべてこれらの習わし(ワックス板の利用を指す)は、皮紙(パーチメント)や冊子本すなわち現代の折畳式の本を採り入れる道を開いた」(同書)とも述べる。しかしワックス板とパーチメント冊子の関連について何も示さず、論証もされていない。

 パピルスの裏には文字が書けず、折り曲げることが難しかったのに対し、皮紙は裏にも書け、また自由に折り曲げることができた。また、利用に不便な巻物に対し、冊子は索引が容易であった等とする見方は結果論であり、論証できたとはいい難い(紀元後のエジプトに両面書写の冊子が多数存在する)。何故、巻物は裏を利用できなかったのか、文字と書物の国である中国が何故、8世紀まで巻物を利用し続けて不便としなかったのか、等を明らかにしなければならない。

 
冊子が発生した過程を次のように推定する。冊子の本質は、「紙葉を重ねる」ことではなく、それを「折る」ことにあった。もし、料紙・素材を重ねて書物が発生可能であったなら、書物は巻物で誕生しないで、あるいは巻物で誕生する前に、紙葉を単純に重ねた形態の冊子で誕生してよかった筈である。しかし歴史の事実は、平面シートは重ねずに長く継がれたのである。料紙を2つ折りすることが、東西で共通の冊子の発生の原理・法則になる。

  料紙を巻物に継がずに糊または糸で冊子に綴じることの発見は区欄(コラム)によって区切られた面に沿って料紙を折ることによって発見された(逆に言えば、折った料紙の折り目にそって区欄を配置した)と言える。

 西洋の冊子は羊皮紙を折ることによって発見された。1 頭の羊から1 枚の羊皮が採れた。その平方に広がった皮紙を書物に仕立てる場合、有効かつ最大限に料紙を利用する方法は、その2 等分した中心線で折り畳めばよい。2つ、4つ、8つと、同じ寸法に折られた全料紙の見開きに、パピルス巻物の区欄を順次、配置した。パーチメント冊子 (4-2) には最大、片面に4欄、見開きで8欄を配置した。日本の綴葉装と異なり、パーチメント冊子の折帖 (4-3) の見開きは必ず同一面になるという「グレゴリーの法則」 (4-4) に従っていることは、パーチメント冊子が皮紙(パーチメント)を順次、折り畳むことによって発見された何よりの証拠であると考える。以後、皮紙を折り畳まず、1枚1枚の皮紙(のち紙)を集めて冊子に仕立てる場合でも、敢えて皮紙、紙の表と表、裏と裏を合わせている。


 なお、年代的には2世紀の『チェスター・ビーティー 4-5) 等の存在から、パーチメント冊子の発生の理由をパピルスの2つ折りシートからとする説もあるが、そうならば、長く継いだパピルスを突然に切断した動機が解明できない。その折帖は、「グレゴリーの法則」に従わず、日本の綴葉装の折帖と同様になるはずではないだろうか。また、区欄は片面に2~4欄ではなくパピルス冊子 (4-6) や綴葉装のように1欄になるべきではないだろうか。エジプトの地に限られるパピルス冊子の発生事情は、パーチメント冊子の折帖構造を見ることに拠って初めて、それまで千年間、絶えて折り曲げなかったパピルスを区欄単位の間隔で切断し、その2つ折りが可能になったことにあったと推定する。その間、凡そ400年を要して、巻物から冊子への引継ぎは簡単ではなかったことは、書物の発達史における素材や形態等の変革期には必ず見られる事象として予想できる。(中国では、紀元前に紙が発見されて、簡冊から紙本巻物への引継ぎがほぼ完了したのが紀元後の3世紀であった。

3節 東洋における冊子の発見   4章 冊子の発見

 中国の冊子は利用に不便な巻物を折り畳んで折本が発生し、その折本の背を糊付けした旋風葉の前小口を切り開いて冊子が発生したとする説がある。 (4-7)  しかし折本の背を何故、固定しなければならないのか(平安前期までの写経巻物の9割以上が後世、折本に改装されて伝承し、その背は固定されないまま、写経、法帖などに中世以降、一層流行している)、長く継いだ料紙(の前小口)を何故、切断するのか。折本から行なわれたとする一連の改装の過程は一時期に集中させることができるのではないかと考える。巾の狭い折本は冊子の定型に連絡しない。

  次に陳国慶は「(旋風葉が)始められたのは、およそ9世紀の中期のことで、それは巻物形式から冊子形式へと発展する過渡期的な形であった」(『漢籍版本入門』)とするが、既に806年に冊子が中国から日本に将来されているので(三十帖冊子 (4-8) )、冊子は8世紀末の中国で確実に発見されていたと考えられる。一方、折本の現存最古は遥かに遅れて、中国で11世紀、日本では12世紀末期になり、中国西域で最も速く10世紀であり8世紀に折本が存在した痕跡は全くない。

  書状など、記録・文書の各葉を一定の大きさに揃えて重ね、その右端(または左端)を紐で綴じれば、冊子が簡単にできそうであるが、そのような冊子(書物)は発生しなかった(中世以降、保存するために文書を集めて行なう例はある)。西洋の冊子は平方に広がる羊皮紙を最大限に生かして折り畳んで冊子を発見したが、また東洋の冊子も料紙を2つ折りしている。胡蝶装の料紙が)の準備が不可欠であるが、しかし、文字を縦書する東洋の巻物には区欄がない。書物の線条構造を切断することになる区欄の発見は、写本2つ折りされた理由について、フェーベルは「(折本は)ひらひらとしすぎて破れやすかったので、2つ折りした紙葉を重ね、折り目に糊づけして貼り合わせるようになった(『書物の出現』)」として、折本の「欠陥」を述べるが、肝心の、料紙が2つ折りになる理由を説明していない。

 東洋の冊子は、印刷術の発見によって発生したと考える。 もし仮説に従えば、料紙を2つ折りして発生する冊子には、料紙の折り目に沿った区欄(コラム時代の東洋では極めて困難であったとみなければならない。中国の巻物は印刷されることによって一版に区欄を発見し、区欄に切断された全ての料紙を見て、それを2つ折りし(各料紙奥に記されていた丁付けは中央に移動して「版心」になる)製本する、胡蝶装冊子を発見したと推定する。

  なお、冊子の発見には書写と製本の先後の問題も絡む。即ち、料紙が事前に糊継ぎされて成巻された巻物・写本に対し、印刷本は製本してから印刷することが不可能で、製本する前に既に料紙は書写(=印刷)されていた。

  東洋において、印刷術の発見と冊子の発生の両年代が近接している事実を重く考える。印刷術発見後に巻物が絶滅していることは、印刷術と冊子の相関性を示していると考える。劉国鈞は印刷術と冊子の関連を認めて「冊子本が成立するにさいしては、整版印刷の技術が密接な関係を持っている。それこそ、整版印刷は、冊子式の書籍があらわれるにあたっての、主な原因であったとさえ、極言できよう」(『中国書物物語』)。李致忠も「(印刷が発見されて)ひきつづき巻軸の様式を採用するのであれば、貼り合わせるのであれば、貼り合わせる手間がむだであるばかりでなく、より発展した社会科学の文化的需要にも適応できない。そこで新しい装幀様式-胡蝶装様式が現れたのである」(『中国古代書籍史』)と述べ、折本媒介説を採りながらも、なお冊子の発生と印刷術発見の関連を無視できないでいる。

 印刷された巻物は、版木によってレイアウトされた印刷料紙が、全て同一寸法に切断されてコラム化し、冊子発生の前提条件が整えられた。そして冊子発生の法則に従い、印刷された各料紙が2つ折りされたと推定する。料紙が切断されても、巻物に引き続き料紙を見開きに見る谷折り、中綴じである。ペラの料紙からは冊子が発見されなかったことは、溯って書物が、独自に巻物で発見されたことに次ぐ書物の構造を示し、巻物の機能を引き継いていたといえる。印刷によって発見された冊子に白紙の裏が存在したことは、冊子が印刷術によって発見された証拠であると考える。何故ならば、印刷術を発見できなかった他の民族において発生した冊子書物に白紙の裏は存在しないからである。中国の冊子を受け入れた日本の粘葉装も両面に書写、印刷している。 (4-9)

 なお、「龍鱗装」の存在については、それは印刷時代における「原稿」であったと考える。龍鱗装は巻頭に軸が付いて巻頭から巻くこと、全巻開かないと利用できないこと、料紙を2つ折りする前にその両面に書写したこと、全料紙の構造、寸法が合同でないこと等、文書としての条件を完備している。また、龍鱗装の形態は巻物との類似は多いが、胡蝶装冊子との構造の連絡が見られない。龍鱗装のほか、巻物でも冊子でもない写本時代の試作品は、「敦煌写本」中に多種類見られるが、それらを紙本巻子と胡蝶装の間に位置づけるのは無理がある。

4節 冊子の構造と変遷   4章 冊子の発見

  冊子は料紙を2つ折りし、「折り目」と「綴じ目」を一致させた中綴じで発見された(後年、東洋は平綴じに変節する)。同じく料紙を2つ折りにしても、東西で中綴じの構造は異なった。寸法が決められていた西洋の皮紙は、2つ折りを繰り返した「折帖」を必然としたが、東洋の料紙は自由に寸法を決めることができた手漉き紙であったため、料紙は2つ折りに限られた。加えるに、素材の違いは西洋(皮紙)の糸綴じと東洋(紙)の糊綴じに分かれた。西洋の冊子は各折帖を隣接する綴じ穴上でチェーン・ステッチされ、後に、各折帖をつなぐチェーン製本構造を支持帯に置き換えたが、冊子の基本構造を今日まで変えることはなかった。紀元後まもなく中綴じで冊子を発見して以来、西洋では、紙と印刷術の使用の遅れを除けば、書物を万人に解放する最短距離が採られ、今では全世界で西洋の書物(冊子)が採用されている。

 西洋の冊子と対照的な変遷を示したのが東洋(中国)であった。紙の発見等の恵まれた技術的条件、貴族制度の廃止並びに科挙の制度による士大夫社会の成立等の幸運な条件から、中国社会は印刷術の確立に歩を進めた。そして印刷の発見とその隆盛は冊子の発見を導き、中国は写本と、写本の典型的な形式である巻物を絶滅させた。それは周辺民族から飛び抜けて速い書物の進歩であった。しかし東洋の<悲劇>の始まりは、世界で始めて印刷術を発見したとき、その書物がまだ片面書写の巻物時代であったことである。

  東洋の冊子は、中綴胡蝶装)で発生したが、印刷した書物は変則的な冊子となり、薄い料紙を糊で中綴した折帖は、落丁し易く、また、列帖が単葉にとどまり、冊子の中綴じ構造を維持、発展させることができなかった。袋折り・平綴じの片面印刷は、匡郭中に版心を設けて平綴じに進み、糊綴じ装丁の弱点を補って順次、改装された。 (4-10)

  中国並びに中国に追従した東洋が完成させた冊子は、書物に白紙の裏が存在する不可思議な書物だった。やがて、19世紀に西洋の近代文明の洗礼を受けた東洋は、それまでの冊子の一切を破棄することになる。東洋も冊子は中綴じ製本に復帰し、文字を料紙の両面に、金属活字で印刷した。

  なお、東洋の冊子については、その変遷、各装丁の流行期間が明確でない。中国の研究者によれば、胡蝶装は宋、元代まで、包背装は南宋に始まり元、明(中期)に流行し、胡蝶装と包背装の交替は元代、線装は明代の中期に発生し、包背装、線装の交替は16世紀であるとされる。書物の文字、素材、製本等が最高度に規格化される印刷時代に、異種の装丁が共存することはないと考えるが、日本の研究者の意見は、中国の線装は宋代から存在したとする等、更に意見が分かれてい る。

中国と日本の冊子装丁  

 日本はアジア大陸の極東に位置して中国とは直接に国境を接せず、その文明、文化を、比較的自由な立場で受け入れ模倣できた。社会的条件の制約から、中国の書物をそのまま受け入れたことはなく、特に中世までは中国とは異なった道を歩んだ。このことについては、印刷書物についての相違(中国の片面印刷と日本の両面印刷)の事実さえ論議から棚上げされ、検討が行われてこなかった(印刷の違いは、料紙の厚薄といった単純な話ではないと考える)。日中両国の装丁の比較検討は、書物の歴史に関わる重要な論題である。日本に伝存する宋・元版は、今、そのほとんどが線装に改装されているが、それらを仔細に観察すれば、包背装の痕跡が認められ、更にその前の胡蝶装の痕跡も見られる。つまり基本的に、中国の書物は時代を変遷して常に改装されてきたということである。 中国では唐末期に印刷術が発見されて以来、写本とその装丁である巻物が絶え、また印刷時代に入って書物の装丁が規格化され、胡蝶装から包背装、包背装から線装へと、装丁の変遷が単純化されて示された。

 それに対し、日本の書物の歴史には改装がほとんど見られない。日本では各時代で装丁が寡占されず、同時代に常に複数の装丁が行なわれた。その特色は、印刷時代に入るのが遅れ、写本と巻物は19世紀まで絶えることがなかったことである。むしろ、日本では巻物としての書物の形態が尊重され、また時代を古く見せるために、近世になってさえ、冊子が巻物に改装される例が少なくない。また、書物の装丁と文書の形態も分明化されず、装丁の命名に混乱を呼んだ。 (4-11)

 中国の胡蝶装、包背装、線装の変遷に対応して受け入れた日本の冊子は、粘葉装、くるみ表紙、袋綴と呼ばれた。但し、両国の最初の冊子である胡蝶装と粘葉装は、日本の研究者から同一視されているが、原装で残存した宋・元版と日本の粘葉装を観察した事実は、両者の製本構造が中綴じと平綴じに大きく分かれる。 4-12)

5節 折本および綴葉装の位相冊子東伝説   4章 冊子の発見

  東西の民族が移動、交錯した中央アジアの書物と文書は、ヨーロッパ、中国とは異なる特異な様相を示す。即ち、胡蝶装冊子、洋装冊子、巻物、貝葉、折本、樹皮板・木板や、掛軸のように縦に展開させる巻物、及び巻物と冊子の中間の形をさまざまに示した形態である。その混合文化の特色は、中国の書物を除けば、印刷が貝葉と折本にしか試みられていないこと、また、キリスト教の書物が全く印刷されなかったことである。

  折本は次のようにして発生したと推定する。 中国西域に移り住んだ、仏教を信仰していたチベット人は、中国から伝えられた印刷術を見て、貝葉仏典の印刷を中国人の手を借りて試みた。幅の狭い貝葉を一版に彫るのはいかにも能率が悪い、そこで貝葉の1葉(表裏の2面)を1面の木版に配して1版として彫版した(10世紀の遺品に貝葉の表裏を1版として、欄外に漢数字の丁付けがあるチベット文がある)。印刷した料紙の紙背全面を糊付けして貼り合わせれば、元の貝葉が復元する。しかし、書写・印刷してから本文料紙を貼り合わせることは、書物の意義、機能からも考え難い。印刷された貝葉が復元されなかったことは、幅の狭い貝葉の形式を尊重して、貝葉同様に紐を通す穴を印刷しても穴を空けなかったことに窺える(ただし、漢文が縦書きされた貝葉写本には穴が空けられている)。料紙の表にしか印刷されなかった貝葉の各料紙は、当初、巻物のように継がれていたかも知れない(その巻物の展開は東洋の掛軸のように縦になる)。それが中国の巻物と異なるのは、貝葉の寸法の単位に区欄が既に設けられていたことである。その区欄を利用して貝葉の製本構造を復元したのが、チベットの綴じ穴の跡を印刷した折本であると推定される。 (4-13) その貝葉には中国の印刷書物同様、料紙に白紙の裏があった。(書物において)漢字を横書きすることができなかった西域の中国人が仏典を印刷した製本の形態が中国の折本である。その折本は中国の胡蝶装冊子の寸法に合わせて一版が4〜6曲となった。折本の判型は書物のそれとしては異形である。  

 冊子が折本から発生したとされる定説は、書物を構造の視点から考察すれば否定せざるを得ない。インドを中心とした東南アジアでは、貝葉に加え、折本が書物の一般的形式となっていることに対し、中国の折本はほとんど版経に限定され(その特徴として、一般の書物に欠かせない界線が折本にはない)、印刷時代以降の中国の一般の書物に折本が存在しない。写本時代が長く続いた日本では、巻物(写経)が折本に改装された例は無慮無数にのぼるが、一般の書物が折本に書写されることは少なく、また、折本に印刷されることはほとんどない。折本が多いのは平安末期の文書(九条家など)や、中世以降の文書(手習いの法帖など)である 4-14)


 もし、巻物が利用に不便であったので折本が工夫されたとするなら、素朴に考えてその場合は、折り巾を広く採るべきではないだろうか、東西で、また現代の書物に至るまで冊子の寸法はほぼ一致しているし、折本に仕立てて巾を狭く採る理由が見当らない。  書物にした場合の折本の欠点は、装丁が不安定であることである(その欠点は転読に利用されている)。折本は料紙の折り目が2個所に分散したためにその料紙を綴じる(固定する)ことができず、冊子に進むこともできなかった。その形態の不安定さは同じく片面利用の巻物にも劣り、貝葉同様その発展が閉ざされた。


冊子東伝説

 日本の綴葉装を含めて、東洋の冊子は中国西域を通して西洋の冊子が伝えられたものであるとする冊子東伝説が、古く、昭和初年から存在する。その根拠にキリスト教の中国への伝播と洋装、綴葉装両装の「類似」が挙げられている。両者の帖装は似ているというが、しかし西洋のパピルスと東洋の紙本巻物が似ていても両者の間の影響を考えない理屈と同じではないだろうか。

 中国と日本の関係のように、文化の移植はその精神文明の移植を伴わずしては行われないと考える(その判り易い例は、中国の印刷術が隣接するインド文明圏に伝わったのは、17世紀のヨーロッパ人に拠ることが挙げられる)。中国が西洋文化を受け入れたのは、19世紀に西洋の侵略を受けて、初めてその文明を受け入れ、学習しようとしてからである。そのとき、中国はその書物の伝統の一切を捨てた(表意文字を除き、紙と製紙法、印刷術(木版)、装丁・製本も破棄した)。西洋・中国両文明の接触、伝播の問題を考えると、わずかに古代、中世の中央アジア諸民族は、自ら信仰したインドの仏教を中国へ伝えたことにとどまり(玄奘ら人間による直接交流の力も大きい)、文明を伝播、波及させるエネルギーは持っていなかったと考える。

 西洋のチェーンステッチchain stitch)に似て、綴葉装は一見、その糸綴じが複雑であるかに見えるが、製本構造としては最も単純な料紙の束ね方である仮綴じ装(結び綴じ)であった。 なお、複数の料紙を同時に2つ折りする帖綴は、東洋では日本の綴葉装を除き存在しないが、日本の綴葉装は、中国の胡蝶装の中綴構造(谷折り)を見て、その素材の特質(斐紙は東洋の皮紙と称される)によって糊を糸に代えた折帖構造を採用した装丁であった。因みに、日本に胡蝶装が流行し始めた平安中期に綴葉装が発生している。圧倒的に中国文明を受け入れていた日本が、独自に冊子書物を発見したとするには無理があるが、但し、中国の胡蝶装(中綴じ)を即、模倣したのが日本の粘葉装(平綴じ)であり、胡蝶装の中綴じから導かれて工夫された中綴の冊子装丁が、綴葉装であったと考えれば筋が通るのではないだろうか。 (4-15) 日本は折帖を目の前に見ながらその優れた冊子の製本構造を認識することができなかった、そして漸く書物が広く印刷されるようになる江戸時代になると、印刷という書物の規格化の規制に迫られ、綴葉装は脱落し始めた。

  洋装はパーチメント冊子の発生地であるコプト綴じとして始まる。コプト綴じは4つ穴に2本の糸を通し、特に綴葉装に似るとされている。しかし、洋装冊子の製本原理は発生以来、今日まで不変のチェーン綴じであって結び綴じではない。各帖の隣接する綴じ穴の出入を利用して各帖ごとに糸を鎖状に絞めてゆく。綴じ糸は表紙の一方の板から入って本文料紙を綴じ、他方の表紙の板に抜けて止められる(綴葉装の結び綴じのように、1本の糸の両端が最後に結ばれることはない)。初期のコプト綴じは糸を2本に分けたが、製本の構造上1本でもよいわけで、6世紀頃には糸は1本になり、綴じ穴も偶数個に限られず自由になり、その後、チェーン構造を背の支持帯に置き換えて製本の強化を図った。

   冊子の製本構造とは列帖構造である。パーチメントの2つ折り判及び胡蝶装は単葉の「列帖」であり、パーチメントの四つ折り判以下と綴葉装は複葉の「列帖」である。確かにパーチメント冊子と綴葉装は糸綴じであることも似ているが、それは複葉の折帖は糸綴じすることができるが糊綴じすることはできないというだけのことである。書物を印刷することに重点があった中国の料紙は、安価を指向していたので、薄く弱い。糸綴じ(中綴じ)を発見することはほとんど不可能であり、また料紙の中央に版心を設けたことから見れば、糸綴じを全く指向しなかったと推定する。



6節 冊子の書式  
4章 冊子の発見

(1)   冊子の書写

 書物は巻物から冊子に代り、形を大きく変化させたが、巻物同様、冊子に仕立てられた書物も写本の原理に従い製本されてから書写された。書写と製本の先後の変化は、書物の構造に革命を起こした印刷術に対応した現象とも言える。製本する前に書写する(機械で書く)ことが確立するのは印刷時代になってからである。綴じてから書写する写本にページや丁付けは要らないが、書いて(印刷して)から製本する印刷本に、ページや丁付けは欠かすことができない。西洋の冊子が印刷されて初めて、書物に頁付けが発生した。

  料紙に書写してからそれを製本することは物理的に可能である。しかし、冊子が綴じてから書かれたのは、巻物の書写に罫界線の準備が欠かせなかったように、冊子も綴じてから書写用具を当てることによってレイアウトを決めることが書写の原理となっていたからと考える。ほとんど全ての写本は、天地、左右、のど、界幅の寸法が定規で測ったかのように正確であるのに対し(折本に改装された奈良、平安時代の巻物は、折り畳まれた巻末まで界幅に乱れがない)、印刷本が匡郭の乱れ (4-16) を全く異としないという相違は、写本が綴じてから書写された証拠であると考える(後年、辺欄は揃う)。

 冊子における製本と書写の先後は、料紙と筆跡の観察者である書道家、美術史家等から、しばしば正しく指摘されているが、更に、多くの資料によって証明できる。図書寮文庫に偶々、仮綴じ状態で書写を終え、まだ料紙の耳が裁断されていない綴葉装の『源氏物語』(江戸中期)が存在する。また日野家伝来の半葉用の書写用具「板罫」(江戸時代)が伝存する。また江戸の写本には袋綴じ冊子用の半葉の相下敷きが多数残されている(しばしば冊子の最終丁に挿入されたまま残る)。平安写『粘葉装和漢朗詠集』の料紙を超えて記された返し書きは、冊子に仕立てられてから書かれたと考えるほかない。

  なお、中国の書物には、印刷本に不必要であるはずの匡格、界線が存在するのは何故だろうか。写本の場合とは異なり、印刷本のレイアウトは彫板で行われるが、中国の版本を見ると、画数の多い象形・表意文字を綴って行間に空きがない、つまり中国の印刷本は黙読するために界線が必要であったと推定する。中国の版本を移植した筈の日本の版本には原則として匡格、界線がない。写本時代が長く続いた日本の印刷文字は規格化が進まず筆写体であるうえに、表意、表音文字を混合させた連綿であり、また行間には空きもある(中国の版本に行、草書体が稀にあるが、連綿はない)。

 西洋の書物についても、書物の構造から理論的に予想されるのは、製本してから書写されたパピルス巻物に次いで、パーチメント冊子も、写本は「製本」してから書かれたということである。但し、皮紙を書物の料紙にしたこと、及び板表紙と一体化した綴じ付け・製本が行なわれたことを問題として、「製本」の意味に注釈を付けなければならない。西洋の冊子は、板(表紙)を付けてから書写を始めるのではなく、折り帖単位で書写している。料紙を折り、罫・界線、折り記号(更には「丁付け」)を付け、しかし、折り畳まない状態で書写を始めたと考える。レイアウトを決め(あるいは仮綴じ)してから書写した意味を、書物の料紙を一枚(表裏4ページ)単位で書写してから、料紙を集めて製本することと分けた。

 綴葉装の例では、各折り帖を集めて天地をルーズリーフ状に仮綴じしておいてから、「板罫」でレイアウトを決めながら書写されている。 4-17) その後、料紙の左右の余白を裁断し、最後に本文を校正し、表紙を付して製本が完了した。書写と製本の先後の問題で、書写した料紙を製本するのが印刷本であるという考え方である。1枚の料紙に描いてから各扇に切断し、各扇単位では描かない屏風、襖の事情と同じであると考える。

 現代の書物には、本文にページが振られ、本文の前に目次がページと共に示されていが、写本には目次がない。綴じてから書写する写本には「ページ」の類は存在しない(その事情が異なる西洋の写本に「丁付け」はある)。日本の粘葉装では、写本に「丁付け」は不必要であったが、「書いて」から製本される印刷本には欠かせず、料紙の裏の糊代に隠された。



(2)   冊子の寸法および表紙  

 書物の寸法は、料紙の寸法によって決まる。西洋は羊皮紙の寸法により書物の大、小は皮紙の2つ折りの繰り返しで決まった。これに対し、東洋の手漉き紙は、必要に応じて大小の紙が漉かれた。美濃判、半紙判用の紙を漉き、また半切して中本、小本に冊子を仕立てた。 (4-18) 事前に、同一寸法の紙を大量に要求した書物の印刷は、料紙及び判型の規格化を推し進めた。

 パピルス、簡策の巻物時代にあっては、そこに表題も記されず、表紙は単なる書物(本体)を保護するカバーにすぎなかったが、冊子時代に入ってもなお、写本は巻物同様の事情にあった。本体(書物)並びに装丁・製本構造に占める意義、役割は付随的であった。但し、冊子時代に入って、東西で表紙の意味、機能が分かれた。皮紙を料紙とした西洋の冊子は、表紙に板を要求し、冊子の糸綴は表紙と一体化した。 (4-19 一方、東洋の冊子は紙の料紙に紙の表紙を当て、本紙と表紙に製本構造の特別な関連はなく、表紙は多く本文共紙であった。冊子の表紙が書物の一部を構成し、役割を担うようになるのは、印刷時代に入ってからである。


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          パーチメント

 

 

序章 人間書物
1 人間書物とは
2 書物と文書の違い
3 書物と文字 

1章 巻物の発生
1 巻物の発生
2 巻物書物の構造・書式
3 書物になれなかった形態

2章 紙の発見
1 紙の発見
2 皮紙と紙の西伝
3 書物における料紙の進歩 

3章 書物の書写
1 書物の書写と写本の伝承 
2 異本の発生 
3 日本の写本

4章 冊子の発見

1 冊子の発見
2 西洋における冊子の発見
3 東洋における冊子の発見
4 冊子の構造と変遷
5 折本および綴葉装の位相、冊子東伝説
6 冊子の書式

5章 印刷術の発見
1 何故、中国は印刷術を発見できたのか
2 書物の印刷術
3 日本の印刷の特異性
4 書物の版式
5 中国・朝鮮とヨーロッパの印刷術の相違
6 書物の近代化 


 

      

     グレゴリーの法則

 

 

  旋風葉
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    チェーン・ステッチ

 

 

 

 

 

 

東洋の冊子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

包背装
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